第4章 ストレスと精神疾患

ストレスとは

現代社会はストレス社会とよく耳にします。

そして、鬱病などの精神疾患の原因もまたストレスと言われています。

そのストレスとは一体何なのでしょう?

一言で言えば、ストレスは脊椎動物が獲得した防衛システムです。

扁桃体が危険を察知するとストレスホルモンが分泌されます。

ストレスホルモンが分泌されると緊張状態となり、機敏に動ける様になり敵から逃げて身を守るのです。

このメカニズムは短期間なら有効ですが、持続すると問題が生じます。

ストレスホルモンは糖質の為、脳の血流が悪くなってしまい、ストレスの継続は脳に必要な栄養が滞る事になり、脳細胞がダメージを受け弱ったり死んでしまったりして神経ネットワークが失われていきます。

そのダメージを受けた状態が鬱病などの精神疾患です。

つまり、被害妄想状態にあればストレスは継続してしまい、被害妄想を抱いている期間が長くなるほど鬱病などの精神疾患の危険性が高まってしまうのです。

 

社会性とストレス

ストレスのメカニズムをご理解頂いた上で、社会性とストレスの関係に話を進めましょう。

人間は集団で生きる動物です。

集団を形成するメリットは、外敵を逸早く察知して対応出来る事です。

それは集団の中に安心をもたらします。

ですので、人は本能的に孤立を恐れ、繋がりを求めるのです。

その集団の中の安心感は、集団の仲間を信じていなければ得られません。

仲間を信じていなければ、襲ってくるかもしれない敵に囲まれている心境になってしまいます。

これこそが「社会性は信じる事で成り立っている」の原点です。

集団の仲間が信じられなければ、狼の群れに迷い込んだ羊の心境になってしまいますので、群れにいる限りストレスが継続してしまいます。

群れにいる事がストレスになっていれば、そのストレスから逃れるには引きこもるしかありません。

それが「引きこもり」です。

しかし人間の脳は筋肉と同じで、使えば発達し、使わなければ退行してしまいます。

引きこもって、他者とのコミュニケーションが無くなれば、当然コミュニケーションに係わる脳の部位が退行してしまい、引きこもりの期間が長くなればそれだけ社会復帰も困難になってしまいます。

コミュニケーションで大切なのは表情による情報伝達ですので、メールやSNSでは意味がありません。

 

このストレスの理屈で考えると、秋葉原事件などの無差別殺傷事件を起した犯人が、口を揃えたように「誰でも良かった」と言う理由が分かると思います。

彼等は一様に社会性が低くかった為、目に映る人を敵の様に感じていたのでしょう。

狼の群れに迷い込んだ羊は目の前の狼を蹴散らさなければ群れから出られません。

また、豊中で起きた隣人殺害事件の様に、数十箇所も刺して「殺意は無かった」と言うのも、動物的に見れば理解出来ます。

捕食動物は狙って獲物を殺しますが、草食動物が捕食動物に立ち向かう時は全力で攻撃しますが止めは刺しません。

豊中の事件の犯人は被害妄想で嫌がらせを受けていると思い込み、身を守ろうと全力で刺した結果、相手は死んでしまったと言う事だと思います。

しかし殺された人やそのご家族は、被害妄想で滅多刺しにされては堪った物ではありません。

この犯人は、「子供がドアを叩く音がうるさい」と被害者に文句を言っていたとの事ですが、その音もストレスが原因で聞えていた可能性が高いのです。

その原因については第5章で書く事にします。

こうした事件の犯人は、他者への不信を募らせて行った結末でもあるのです。

 

被害妄想に説得は無意味

被害妄想を持つ人に、多くの人は「それは被害妄想だ」と言って説得を試みます。

しかし、被害妄想を持つ人に説得を試みても、一旦は納得しても直ぐに元に戻ってしまいます。

その理由も、ストレスの理屈で説明できます。

ストレスは扁桃体が危険や不快を感じて発生します。

しかし、説得で納得するのは前頭葉です。

前頭葉で納得しても、扁桃体が危険を感じていれば不安が消える事はありません。

言葉による説得で前頭葉は理解しても、扁桃体には言葉が通じないので理解出来ません。

しかも人間の脳は、危険が迫った時に考えてから行動していては手遅れになってしまう為、扁桃体が危険を察知すると前頭葉の働きが抑えられて扁桃体主体の脳に切り替わってしまう様に出来ているのです。

つまり、落ち着いている時に説得すれば納得はしますが、一度扁桃体が危険を感じれば、前頭葉で納得した事など吹き飛んでしまうのです。

ですので、被害妄想に説得は無意味になってしまうのです。

被害妄想の人を納得させるには、言葉の通じない扁桃体に教えるしか有りません。

言葉の通じない扁桃体に教える事こそ「経験」なのです。

それは言葉を持たない犬や猫の学習と同じ理屈です。

だからこそ、盗聴器や盗撮カメラなど仕掛けられていないと分かっていても調査が必要なのです。

調査を目の当りにし、実際の盗聴器や盗撮カメラを見て、実際に試して性能を知る。

そうする事で、扁桃体の感じる不安を解消するのです。

場合によっては、TVの盗聴特集のビデオも使い、少しの実験とレクチャーをすればTVの盗聴特集の嘘が自分で見抜けるようになります。

盗聴特集の嘘を自分で見抜けるようになれば、それに付随した妄想は根底から崩れ去ります。

人間は見たり聞いたりしているだけでは、世界を認識しているに過ぎません。

認識した世界を触る事で確認しているのです。

妄想とは確認もしていない事を、自分勝手に認識しているに過ぎません。

被害妄想を外すと言う事は、そう言った経験による確認作業の繰り返しです。

また、病気を発症していた場合は投薬で不安を押さえて扁桃体を鎮めて、前葉の縛りが無くなるので、拗らせてさえいなければ、被害妄想だったことを自覚しやすくなります。

 

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第3章 知っていると知っているつもり

知ってるつもりと言う無知

ネットで何でも調べられる時代において、間違えやすいのが「知っている」と「知っているつもり」の違いです。

ネットで調べると言う事は「知っている気」になっているだけで、本当の事は何も分かっていないのです。

例えば、「盗聴されているかもしれない」と思いネットであれこれ調べたとします。

そして業者のページを見ると、色々な事例や方法が書いてあります。

しかし、第1章で書いたように、依頼者のお宅に着いている確率は1/1000以下です。

実は、殆どの業者は技術は持っていても本物を見つけた事が無いのです。

業者の発する情報には必ずベクトルが入っており、そのベクトルは利益に繋がるように書かれています。

つまり、どれほど高度な技術を持っていても、発見業者を名乗っていて実際に見つけた事が無いと正直に書いていたら誰も依頼しませんよね。

ですので、書かれている事例は「作り話」が大半を占めているのです。

しかし、読む人にはその虚実は分かりません。

殆どの人が「業者が書いている事だから事実だろう」と信じてしまうのです。

これを「権威性」と言います。

人はそこに権威性を感じると、経験した事が無い話でも信じてしまうのです。

信じるだけなら良いのですが、それを現実だと思ってしまうのです。

つまり、知っている気になっているだけで、本当は何も知らないのです。

 

経験で学ぶ必要性

全ての動物は経験によって学びます。

人間は文字や言葉で学びます。

それ故、自分の経験を他者に伝え、後世に知識や技術や経験を伝えることが出来るのです。

しかし、その文字や言葉で覚えた知識には、同じ経験が伴わなければ妄想と変わらないのです。

その代表的な物が「アポロ11号の疑惑」です。

人類で始めて月に行ったアポロ11号には幾つかの疑惑が持たれました。

その一つが、月面に立てた旗です。

空気の無い月面に立てた旗がはためいている映像を見た人が、「空気の無い月面で旗がはためくのはおかしい」と捏造説を唱え始めました。

そう言われると尤もの様に思えてしまいます。

そして、空気の無い月面で旗がはためくのはおかしいと思った人は捏造説を信じ、他にも色々とおかしい所を見つけてしまうのです。

例えば、砂浜に残った足跡は崩れてくっきりとした足跡にならないのに、月面の足跡はクッキリ残っているから怪しい。

確かに、砂浜などに足跡をつけてもクッキリと残りません。

しかし、それは使う理屈が違うのです。

人は自分が経験で知っている環境で物事を考えてしまいます。

月面と言う、水も空気も無い環境の事を、知っている情報を駆使して考えるのですが、空気が無い、重力が小さい程度の事しか思い浮かびません。

それ故、捏造説に信憑性を感じてしまうのです。

 

しかし、空気が無いと言う事は、空気抵抗も無いと言うことです。

空気が無い月面で旗がはためくのは、立てる時に揺れた為、慣性の法則で動き続けているのです。

空気が無い事から、慣性の法則が思い浮かぶ人はまずいません。

それは、身近で経験していないので思い浮かばないのです。

足跡がクッキリ残るのは、地球の砂は風化によって作られますが、月の砂は隕石の衝突で舞い散った粉塵が積もった物です。

衝突で発生した粉塵は、水や風で風化しませんので角が尖った砂なので、足跡がクッキリ残るのです。

これも、月の砂を地球の砂と同じに考えてしまうので、そう言った疑惑が生じてしまうのです。

そして、これらは実験で確かめる事ができます。

このアポロ11号の捏造説は、疑心暗鬼になった人の行動を如実に表しています。

それが「探す」と言う事です。

「旗の動き」と言う一つの疑惑が見付かると、疑惑の目を持って他の怪しい所を探すのですが、月面など経験したことなど有りませんので知っている常識だけで探してしまうのです。

そして、足跡の違いを見つけたり、その外にも「影なのに明るい」だから照明を当てている等、様々な怪しい所を探して積み上げてしまうのです。

因みに、影なのに明るいのは月が太陽の光を反射しているからで、月全体がレフ版なので明るく映るのです。

 

ネットで調べる事の危険性

このアポロ11号の捏造説を信じる人の特徴は、第一に「疑いを持っている事」でそれが「不信」です。

第二に「疑いの目を持ち怪しい物を探す」と言う事です。

怪しい物を探すと言う事は、怪しくない所はスルーして、怪しい物にしか興味を示さなくなってしまうのです。

また、「怪しいとは知らない事」ですので、怪しい物を探すと言う事は、知らない事を探して怪しんでいるだけなのです。

そして第三に「怪しい情報だけを収集」してしまうのです。

怪しい情報が集まると、疑惑が確信に変わります。

その状態は、自分の疑惑に都合の良い偏った情報だけ集め、都合の悪い物は拒絶している状態です。

その情報の偏りを「情報の非対称性」と言い、そこで発生するのが「逆選択」と言う現象です。

ネットで調べると言う事は、自分の求める情報ばかり収集し、興味の無い情報に目を通そうとはしません。

そこに情報の非対称性が生まれ、逆選択に陥ってしまうのです。

そしてネットで調べる時、自分の知っている範囲での判断になるのですが、殆どの人は実際の盗聴器とか盗撮カメラの事など知りません。

それをネットで調べても、内容の真偽など分かるはずもありません。

真偽も分からず、ネットに書いてある情報をつまみ食いして、知った気になっている人がとても多いのです。

極端な人になると、ネットで「ピンホールカメラは1mmの穴があれば撮影できる」「電源があれば撮影できる」と言った情報をつまみ食いして知った気になり、AV機器に付いているリセットの穴を見付けて「盗撮カメラだ」と思い込んでいた人がいました。

それは、我々から見ればカメラではない事は一目瞭然でなので「多分違いますよ」と言うと、「あなた本当にプロなの!」と怒り出す始末。

カメラと言う物は、被写体にレンズを向けなければ映りません。

AV機器の穴は裏側についていて、裏側は壁に向いていたので、カメラが仕込まれていても映りませんし、仕掛ける人もそんな向きには設置しません。

しかし、その人はネットで隠しカメラのレンズの穴を見て、それと同じ様な穴を見つけて「盗撮カメラ」と確信していました。

恐らくその人は、盗撮カメラと同じ穴を見て「多分違う」と言われたので、この人は「盗撮カメラの穴を知らない」と思ったのでしょう。

そして、穴の中を覗いたのですがレンズは無いので、「レンズも有りませんよ」と言うと「ネットに穴があれば写せるって書いてありました、あなたプロなのにそんな事も知らないの!」と言われ追い返されました。

長年調査をしていると、こんな人に度々遭遇します。

そうならない為にも、ネットで調べる前に調査をして、調査と同時に正しい知識を実験を交えて経験として学び、その上で出来る事と出来ない事を理解する事です。

その経験としての理解が無ければ「穴があれば写されてしまう」の様に、主観に左右されてしまいます。

 

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第2章 被害妄想と社会性

被害妄想とは

実際には盗聴器が無いのに盗聴されていると思えてしまうのは被害妄想です。

被害妄想と言うと聞こえが悪いかもしれませんが、被害妄想とは「不信感による疑心暗鬼」なのです。

つまり、盗聴を疑っていると言う事は、誰かに対して不信感を抱き疑心暗鬼が生じていると言う事です。

まず、この被害妄想の意味を理解する事です。

例えば、盗聴を疑っている人のご家族の方は「そんな物は被害妄想だ」と、被害妄想と言う言葉だけで納得させようとします。

しかし、被害妄想は不信感から来る疑心暗鬼ですので、不信感を取り除かなければ疑心暗鬼は無くなりません。

その不信感も社会性に直結していて、不信感を抱いていると言う事は社会性の低下を意味します。

そもそも社会性は他者を信じる事で成り立っていますので、他者を信じられなくなれば必然的に社会性も低下するのです。

 

社会性とは

社会性は「協力と分け合い」で成り立っています。

その協力と分け合いに、他社への信頼は欠かせないのです。

例えば、協力しても何も与えられなければ誰も協力しません。

協力したら与えてくれると信じるからこそ協力するのです。

働いても給料が出なければ誰も働きませんよね。

誰も働かなければ社会は崩壊してしまいます。

お金ですら信用で成り立っています。

国家がお金の価値を補償しているから、単なる紙切れが価値を持っているのです。

その国家に信用が無くなれば、お金は紙くず同然になってしまいます。

つまり、社会は信じる事で成り立っており、信じる事が社会性の基礎になっているのです。

 

社会性の習得

社会性は勉強して身に付けられるものではありません。

社会性は親子の愛着を他人に広げた物でありそれが信頼です。

そして、親子の愛着が育っていなければ他者への信頼も生まれませんし、愛着が不完全であれば他者への信頼も不完全なまま広げてしまいます。

親子の愛着が育たない代表的な物が虐待とネグレスト、不完全な物の代表的な物が共依存です。

また、家庭は社会の最小単位で、その家庭の中で社会性に必要な感覚や概念を習得して育ちます。

例えば「お手伝い」は共同作業の第一歩で、親のお手伝いをする事で共同作業の楽しさを学びます。

しかし、お手伝いをさせて来ないと共同作業の楽しさを学べません。

お手伝いをして上手に出来たら褒められる。

その時に嬉しいと思う感覚が向上心になります。

そうした共同作業の楽しみや喜びを学んで来なければ、社会に出て働いた時に労働はストレスとなってしまいます。

また「交代」と言う概念も社会性には必要で、交代には「自己主張」と「自己抑制」が必要です。

それを学ぶ場が、昔からの遊びです。

例えば「鬼ごっこ」ですが、鬼は交代で遊びます。

遊んでいる子供の中で、「鬼は嫌だ」と言ってやらない子どもがいたら鬼ごっこは出来ません。

皆で楽しく遊ぶ為には、嫌だと思ってもやる自己抑制と、やらない子どもに「ズルイ」と言う自己主張が必要なのです。

それを、何度も繰り返して身に付けて行くのです。

これも、社会に出てからとても必要な事で、それが当たり前のように出来なければ、社会に出ると多大なストレスを受ける事になってしまいます。

鬼ごっことか、かくれんぼなどの昔ながらの遊びには、こうした社会性を身に付ける要素が多分に含まれていますが、TVゲームにはそう言った要素が含まれていません。

ですので、昔ながらの遊びをせずにゲームTVゲームばかりしていたり、受験勉強で昔ながらの遊びをしてこなかったりすれば、当然社会性も低くなってしまいます。

間違えやすいのは、そうした感覚を身に付けてこなかった子供でも「振り」は出来るのです。

自然に出来る子と、振りの子供は見ただけでは分かりませんが、社会に出てから感じるストレスが全く違うのです。

その外にも、社会性に必要な物は沢山あります。

意外と知られていないのが、表情の読み取り能力の必要性です。

社会性に必要な物にコミュニケーション能力がありますが、コミュニケーションと言えば恐らく殆どの人が「言葉」と答えるでしょう。

しかし、言葉と同じ位表情の読み取り能力が人間の脳にとっては必要なのです。

霊長類の顔に毛は生えていませんよね。

それは何故でしょう?

それは霊長類は表情で情報を伝達している為、その表情を読み取り易くする為に、顔に毛が生えていないのです。

人間も霊長類であり同じなのです。

ですので、赤ちゃんはまず顔を認識するようになりますし、大人でも顔と同じ配置の物を見ると顔と認識してしまうのです。

表情の読み取りは相手の心の読み取りであり、表情のない相手には不気味さを覚えるのです。

それは、相手の表情を読み取れなければ、相手に不気味さを覚えると言う事でもあるのです。

その表情の読み取り能力は、幼少期よりの顔を向き合わせたコミュニケーションの積み重ねによる表情データの積み重ねで得られます。

その為、表情データの積み重ねが少なければ表情の読み取り能力が低くなってしまうのです。

つまり、子供の頃からコミュニケーションにメールやSNSを使っていれば、表情データの蓄積がされずに表情の読み取り能力が低下してしまうのです。

読み取り能力が備わっている子と、備わっていない子も見た目は変わりませんが、違いは知らない人と顔を合わせたコミュニケーションをした時に脳が混乱を避けるために、目を合わそうとしなかったり、相手の顔を見て話す事が苦手になります。

顔を見て話せなければ、社会での評価は低くなってしまいます。

 

社会性と被害妄想

さて、社会性が低い事と被害妄想はどの様に関係しているのでしょう。

他者を知るにはコミュニケーションを図るしかありません。

その他者とのコミュニケーションで、表情の読み取りが出来なければ相手の真意が分かりません。

他者とのコミュニケーションが苦手で、他者とのコミュニケーションが少なければ、他者が何を考えているのかを想像で考えるしか有りません。

その想像こそが妄想なのです。

また、

社会性は「協力と分け合い」で成り立っています。

その為、人間には「返報性」と言う性質が備わっており、何かを与えられたら何かを返そうとするのです。

与えられるだけで何も返せなければ返報性が満たされません。

すると深層心理の中で自責の念が生じてしまいます。

例えば、期待されているのに結果を出せなければ、申し訳なさや危機感を感じてしまいます。

危機感を感じていると、何気ない一言が嫌味に感じたりします。

それが被害妄想の始まりで、自責の念から物事を悪い方に考えてしまうのです。

つまり、他者の言動や行動に悪意を感じ始めるのです。

こうなると、保身の為に身の周りの悪意を探し始めてしまうのです。

この状態になると、見えている世界の感じ方が変わってしまうのです。

例えば「誰かが見ている」と言う事象一つとっても、主観一つで正反対の感じ方になってしまいます。

他者への信頼があれば「見守り」が不信になると「監視」になり、気遣いもハラスメントとして感じてしまいます。

つまり、他者への信頼と不信の違いで、日常が自分に対する嫌がらせなどの加害行為に感じてしまうのです。

 

認知症の人に見られる「取られ妄想」も、この返報性が起因しています。

取られ妄想で犯人扱いされる人は、決まって熱心な介護者なのです。

その理由は、介護されるだけで何も返せず返報性が満たされないのです。

与えられたら与え返すと言う事は、返さなければ与えられないと言うことでもあり、社会から見捨てられる不安が生じるのです。

つまり、一方的に熱心な介護は返報性を奪うことになり、奪った者に恨みの感情を抱いてしまうのです。

 

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