はじめに
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実は、私の娘も小学校から中学二年までいじめに会っていました。 中学二年の2学期から転校してからは、いじめも無くなり結構人気者になり、そして高校に入ってからは逆にクラスの中心に位置するほどの人気者になるまでに変わりました。 そして、私の姉もいじめられっ子でした。 私自身、教師からのいじめを受け、その反動で小学校の3年以降は学校でも有数のガキ大将になっておりました。
私は職業柄「盗聴されている」と思っている多数の人と接してきました。 そして、そして「盗聴されている」と思っている人の多くが、いじめ体験者である事を知りました。 しかし、全てのいじめ体験者がこの様に進展していく訳ではありません、その分岐点があるのです。 その分岐点とは「自分を変える事」なのです。 「自分を変える」と言っても、上辺だけ変えても根本は変わりません「自分の物の見方を変える」のです。 その「物の見方を変える一つの手段」が「ファッション」や「スポーツ」など、見た目で分かる上辺の変化なのです。
私の経験を踏まえて、このページを書いていきたいと思います。
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人間は集団生活をする動物である
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よく、人間は動物とは違うなどという人がいますが、人間だって「食欲」「睡眠欲」「性欲」の三大欲求に支配される動物である事を忘れてはいけません。 そして、人間は集団生活を営む動物であり、ボスなどのリーダーを作り集団で生活する犬や猿などと同じ様な習性を持っています。 そしてそれは序列社会であり、その序列社会の最小単位が家族なのです。 その家族での序列が狂った状態で育てば、社会生活の中でその狂った序列意識が精神ストレスをもたらします。
その一つの実例です。 Aさんは、工業系の国立大学を卒業後に設計事務所へ就職しました。 しかし、すぐのその設計事務所を「馬鹿な社長のしたでは働きたくない」と言う理由で、辞めてしまいました。 何故、社長を馬鹿と思ったのか?と言えば「社長はCADを使えず、手書きで設計図を描いている、CADも使えない馬鹿な社長の下では働きたくない」と言う訳です。 その後、転職を繰り返した後ニートを経て自称集団ストーカー被害者になりました。 転職した先でも、同じような理由で「馬鹿な上司」「無駄な仕事」などと理屈をこねていましたが、問題はそんなことではないのです。 この人は、上司の経験や人格を、自分の物差しでしか見る事が出来ず、何の経験や実績も無いのに上司と同じ事が出来ると思っているのです。 そして、ニートになったのは「他人(それまでの上司)が自分を認めなかった」為だと思い込み、それらの会社が裏で繋がっていて、就職する度に自分を陥れようとしていると思っているのです。
この人の親は子供に敬語を使い腫れ物に触るような扱いで、そんな育て方だからこんな子供になるのではないでしょうか?
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いじめは、いじめの事実だけを見ていては無くならない
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今、テレビの報道を見ていると色々な人が出てきて、色々な意見を言っていますが、どれも対処療法的な意見ばかりで体質改善的な意見は見受けられません。 対処療法的な方法では、学校でのいじめや学生の自殺者は減っても社会人になってから同じ問題が出て来ます。 それは「自分に非が無い事に対する自分の非」を自覚する事無く社会へ出て行くからです。
いじめの根本的な解決は「自分が変わらなければ何も変わらない」という事なのです。
この「いじめ」と言う問題は、単に「いじめ」だけでなく「自殺」「ニート」「ヒッキー」などの問題と原因を同じくしていると思われます。 その原因とは「精神的虚弱体質」で、この精神的虚弱体質を生み出しているのが「過保護」と「弱者救済体質」なのです。
「いじめ」が発生するメカニズムを分析すると、その要因の発生は幼稚園や小学生の低学年までさかのぼります。 幼稚園や小学校の低学年の頃は、たとえ「いじめ」の要素が在ったとしても、お互いに自己主張が強く「いじめ」のような行為があっても気にせず自己主張を貫きますから、言葉で通じなければ「喧嘩」などの形で自分を主張します。 しかし、ここで「暴力は駄目」とか「喧嘩は駄目」と教え込まれますので、一つの「自己主張の方法」を奪われます。 小学校や中学校に進むにつれて、暴力否定論が強くなり「手を出した方が悪い」「暴力で解決するのは最低」などと教え込まれます。 しかし、口下手な子供は口達者な子供には口論では勝てません。
子供の会話や行動は「ノリ」の部分が多く、深く考えずに発言したり行動します。 その発言や行動は軽い冗談程度なのです。 しかしその冗談程度の問題の積み重ねが、その後の「いじめ」問題に発展していくのです。
今の世論では「いじめた側」が悪いと言う風潮があります。 確かに、いじめる側に非があり、いじめられる側は被害者です。 しかし、「いじめた側」を罰し「いじめられた側」の問題を見過ごせば、精神的虚弱体質に成長していく可能性が高くなります。 在学中はそれでも良いのかもしれませんが、社会に出てからは誰も助けてくれません。 いじめの問題は、学校だけの問題ではなく社会人になってからの事も視野に入れなければ、問題を先送りするだけです。
そして、精神的虚弱体質が、いじめ問題に限らず自殺問題やニート、ヒッキー問題、そして精神疾患の原因になっているのではないでしょうか?
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親の責任
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親と言う字は「木の上」に「立って」「見る」と書きます。 つまり、少し高い位置から冷静に自分の子供を見ると言う事です。 しかし、子供と同じ目線で物を見てしまう親が増えているように思います。
例えば、子供の友達が遊びに来た時に、その友達の中で自分の子供がどういう立ち振る舞いをしているか?友達の中で浮いていないか?わがままを言っていないか?などを冷静に見ていれば、そこに「いじめ」の要素を見つける事が出来ます。 その「いじめの要素」とは、いじめる側、いじめられる側、双方の要素が見つけられます。 いじめる側の要素としては「攻撃的な口調や言動」をしていないか「友達をからかったりしていないか」などを見ます。 いじめられる側の要素としては「冗談を真に受けていないか」「自分のしたい事だけを主張していないか」「自分の意見が通らないとすねていないか」などを見ます。 そして、そんな要素が見受けられれば、逆の立場ならどう思う?と諭していきます。(相手の立場で物事を見る事を教える) また、子供は学校での出来事を一生懸命話そうとします。 その話をちゃんと聞いていますか? いい加減に聞いたり、忙しいからと言って話を聞かずにいませんか? 鬱陶しがらずに、ちゃんと聞く姿勢を毎日取っていれば、色んな事を話してくれます。 ちゃんと毎日真剣に話を聞いていれば、結構学校での変化はわかるものです。 それが、いじめ撲滅の第一歩だと思います。 そして、一番注意して見なくてはいけないのが、家族の中での「陽気さ」と「友人との仲での陽気さ」の違いを見抜く事です。
これは、幼稚園の頃から見ていなければ違いを見抜けません。 家に中では陽気で楽しく振舞っている子供でも、友達の中では陽気さがない場合があります。 これは、必ずいじめに発展するわけではありませんが、いじめが発生する前兆なのです。 これは、周りの環境になじめず、自分を押し殺している状態で、自己主張が出来ないでいる状況と考えられます。 その状況は、最初のうちは友達に合わしているので、問題は表面化しませんが、不満が鬱積して行き、そんな状況が続けば「性格の陰湿化(ネガティブ思考)」を招く場合があります。
性格が陰湿化すれば、友人は遠ざかって行きます。 それは、孤立感を生み、性格の陰湿化に拍車がかかります。 性格が陰湿化すれば、周りの反応を気にするあまり「堂々とした発言」は無くなり、ボソボソした声でしゃべるようになったりします。 そんな、はっきりしない喋り方をされれば「イライラ」したり、相手にしたくなくなったりします。 つまり、いじめの発生です。 性格が陰湿化したと言っても、その本心は「自分の存在を認めてほしい」だけなのです。 要は、その表現方法が分からなかったり、周りの反応を気にするあまり出来ないでいるのです。 それは、自分の発言が他人に受け入れられた経験が無い為に、間違っていたらどうしよう?何か言われたらどうしよう?などと怖がっているのです。 それを克服するためには、なるべく幼年期にその因子を見つけて「こんな風にして見たらどうかな?一度やって見ようよ」等と、とにかく体験させるのです。
自分が「他人に受け入れられない」と言う思いに凝り固まってからでは、なかなか上手くいきません。 なるべく早い段階に見つける事が大切なのです。 そんな因子を見つけて指導するのは親の役目なのです。
また、親自体が家庭教育を放棄し、その責任を学校に押し付けているように見受けられます。 これから書く事は、親が家庭教育として行うべき物なのですが、これらの事が欠落した人が親や教師になってしまっています。 そこが、いじめ問題が無くならない最大の原因ではないでしょうか?
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経験値を持たない子供
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昔から「可愛い子には旅をさせろ」と言うことわざがあります
幼少の頃からの経験値は対処能力を養う為に非常に重要です。 しかし、今の子供は外で遊ばずゲームばかり、クラブ活動よりも進学塾へ通う子供が増えているように見受けられます。 子供の頃からの経験値はゲームや進学塾では養われません。 知識と経験は違います。 対処法を知っているのと、経験しているのでは全く違うのです。 例えば、車の運転を本で読んで知っているのと、実際に運転が出来るのとは違います。 知識と体験が一つになって、初めて「経験」になるのです。 頭だけで理解している場合、実際にそう言った場面に遭遇すると対処できない場合が多分にあります。(理屈倒れ) 特に、人生の壁に直面した時に、経験値が多ければ、たやすく乗り越えられますが、経験値が少なければ「出来ない」とあきらめてしまいます。 こう言った経験は遊びの中で培われます。 木に登れなかった子供が、何回も挑戦して木に登れるようになり、そこに達成感が生まれます。 そして「落ちたら痛い」「棘が刺さる」など、怪我も絶えません。 しかし、そんな体験の中から創意工夫をします。 そんな些細な達成感の積み重ねが子供の成長には必要なのです。 しかし、今の子供は「危ないから」などの理由で、大人が見て少しでも危ないと思えばすぐに禁止してしまいます。
この経験値による対処能力の違いが分かりやすい物に「オレオレ詐欺の示談金」があります。 一度でも交通事故を経験していれば「示談の話を警察はしない」「慰謝料などは治療が終わってからの話」「示談の話は保険屋が行う」「交通刑務所などは裁判所が決める事で警察はそんな事を言わない」などの事を体験しますので「オレオレ詐欺」の電話がかかって来ても、一笑に付す事が出来ますが、経験していなければ騙されてしまいます。 また、交通事故の経験で「示談や慰謝料」の経験をしていれば、その他の「示談系のオレオレ詐欺」にも応用が利きます。
クラブ活動と受験塾を比較して見ましょう。 クラブ活動で学べる経験値は「学年の違う人とのコミュニケーション」「先輩から教わると言う姿勢」「汗を流して努力して壁を乗り越える」などがあります。 しかし、受験塾ではこれらは養われません。 努力して壁を乗り越えると言う事は学びますが「机上の空論」的な対処能力と、行動によっての対処能力との差が出来ます。 また、クラブ活動などをしていれば、進学時などに「また最初から」と言う事を学びます。 例えば、中学三年で最上級生と威張っていても、高校に入れば一年でぺーぺーです。 そこで、再度初めから始めると言う経験をします。 この経験は、とても大切な事なのです。 幼年期から青年期にかけての経験値は、その経験値を反映して自我が形成されますが、自我が形成されてからの経験値はなかなか自我に反映されません。
例えば、大学入学まで受験勉強一筋で大学に入れば、最上級生的な感覚だけを持った自我が形成されます。 クラブ活動など、上下関係がある世界を体験しながらの進学は、一旦最上級生としてのプライドを捨てなければなりませんので、それまで作ってきた立場やプライドなどをリセットして、それまでの経験を生かした上で新たな自我の形成を行う事を経験します。 つまり、精神的脱皮が行われる訳です。 この精神的脱皮を経験しているか、いないかが社会に出てからの順応力の違いとなって現れてきます。 社会に出れば、学生の頃とは違い何でも自分で解決していかなければなりません。 新入社員で会社に入った時など、精神的脱皮の時期です。 その時に、精神的脱皮を経験して成長していれば新たな精神的脱皮は当たり前のように行えますが、精神的脱皮を経験していなければ、今まで形成された自我を捨てる事は容易ではありません。 そこに、自分の自我を否定されていると言う「精神的ストレス」が生じます。 まあ「麻疹」と同じような物で、子供の時にかかれば問題ありませんが、大人になってからかかると大変なのと同じような物です。
この「精神ストレス」がその後に様々な問題を引き起こすのです。
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コミュニケーション力不足
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パソコンや携帯電話のおかげで通信が便利な世の中になりました。 しかし、これが子供のコミュニケーション力の低下を招いていると思われます。 小学生や中学生の時期は、友人との会話などでコミュニケーション力を養う時期です。 メールや携帯電話は確かにコミュニケーションは取れますが、それは「文字」や「声」だけです。 それを補足するように、顔文字などで少しでも気持ちを表現しようとしますが、それは所詮「絵」でしかありません。 それは、気遣いの振りをしているだけです。 親子の間ですら会話のない親子が増えています。 これでは、コミュニケーション力は養われません。
実際のコミュニケーション力は、会話の中で相手の表情など(特に目)を読み取り、相手の気持ちを理解するように努力して成長していきます。 しかし、メールなどの文字や絵では、リアルタイムの表情は分かりませんし、お互いに社交辞令的な文や気遣いをするので、本心を読み取る事はなかなか出来ません。 嫌な相手ならメールを読まなかったり、電話を受けなければ良いのです。 つまり、常に一方通行のコミュニケーションなのです。
私は子供が小学生の時に、わざと表情を変えて子供に接していました。 そして、叱り方にも段階を設けて、最初は諭すように話て、度合いにより叱り方や表情を変え叱り、人間的にしてはいけない事をした場合には体罰を加えました。 子供は、遊びや悪態などに制限がありません。 親にそう言った態度を取ると言う事は、外でも同じような態度をしていると言う事です。 つまり、友達とふざけている時でも友達が嫌がっていても止めないのです。 これを言い換えれば「初期のいじめ」です。 これを防止するには、相手の表情を読み取って自重させるようにする必要があります。
普段より親が最悪体罰があるという前提で普段から表情を変えて子供に接すると、子供はその表情で相手の心を知り自重するようになります。 最初はふざけて色々な事をして来て、最初は笑って相手をしていて、段々と笑い顔を消して行き、口頭で注意しても止めない時は引っ叩く。 毎日、これを忘れずに子供と接すると、笑顔が消えると悪ふざけを止めるようになるのです。 そして、自分でも「やりすぎた」と思えばホローもしてきます。 つまり、親子のコミュニケーションでそういった能力が養われるのです。 しかし、親子のコミュニケーションがなければこの能力は養われません。 そして、家庭で練習したこの能力を友達同士の間で実践してして行くのですが、ここでも表情の個人差を学びます。
しかし、メールや携帯電話ではこの能力は養われません。 例えば、メールなどでは少し気に触るような事を書いても、その事についての文句はあまり言いませんし、その時の表情は分かりません。 そんな事が続けば、当然心にわだかまりが少しずつ蓄積されていきます。 仲良く思えても仮面の友人なんて事もある訳です。 その反面、匿名性を利用して好き勝手な事を書いたりします。
社会に出てからは、この表情やしぐさを読み取る力が必要になってくるのですが、学生時代にメールや携帯を多用していては、この力は養われませんので、コミュニケーション力不足の大人になっていく訳です。
コミュニケーション力が養われず社会に出ると、相手がどんな意図で話しているのかを読み取る事が出来ません。 その為、次章の「他人から見た自分の想像」をしてしまいます。 そして、その「自分で作り出した他人から見た自分の姿」に自分の心が耐えられなくなる場合があるのです。 また、どんな嫌いな相手とも会話をしなければなりません。 それが、精神的ストレスを生みます。
携帯電話や、インターネットはなるべく持たせないようにした方が良いと思います。
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他人から見た自分の想像
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この「他人から見た自分の想像」は、一番のポイントなのです。 人は他人から見た自分を想像して、それを他人が自分の事をこう思っているんだと錯覚してしまいます。 しかし、相手は本音を言っているのか、社交辞令を言っているのかなどは誰にも分かりません。 つまり、自分の感じている世界観は、鏡に写った自分の心を見ているに過ぎないのです。
例えば、足元に顔をこすり付けてくる猫。 これは、甘えているようなしぐさの様に見えます。 でも、自分の臭いをこすり付けているのです。 甘えていると感じている人は、甘えてほしいと言う自分の心の現われなのです。
物事の見方が変われば、その人の世界観が変わります。 その価値観は前述した経験値と次章の価値観の多様性により、その人の世界観は全く違った物になります。
今騒がれている、いじめ問題にしても、原点はここにあると思います。 例えば、幼稚園や小学校の入学当初には「いじめ」はほとんど存在しません。 その後の関係の中から発生してくるのです。 幼年期や少年期の子供は相手の事など考えずに物事を言います。 特に、肉体的な事など目に付いた事をズバズバ言います。 また、悪態をつくのも子供の特徴です。 問題は、言われた方の態度なのです。 かと言って、いじめられている人が悪いとか問題がある訳ではありません。 まず、言う側は最初から悪気が有って言っているのではありません。 最初は、軽い冗談程度の軽い気持ちで言っている場合が多いのです。 その冗談程度のつもりで言った言葉を、真に受けて泣いたり、怒ったり、暗く沈んだりされれば、その子とは気を使って付き合わなければなりませんし、逆に段々と腹が立ってくる場合も有ります。 逆に、冗談で返してくると、とても付き合いやすい楽しい仲間になります。
この事を踏まえて、もう少し深く考えて見ましょう。 人から指摘される肉体的な事は、言い換えれば他人から見たその人の特徴と言う事です。 問題は、その事をコンプレックスと感じるか、アピールポイントと捉えるかの違いです。 コンプレックスとして捉えてしまえば、それは悪口としか思えません。 しかし、見方を変えれば「自分の特徴を相手が教えてくれている」とも言える訳です。
肉体的コンプレックスなどは自分が思っているほど他人は気にしていません。 逆にチャームポイントやその人の特徴として見ている場合も有ります。 また、たとえ悪口で言われたとしても、悪口として受け取らず、逆に自分からアピールしてしまえば、それは悪口にはならないのです。
こんな事を経験した事はありませんか? 名前を覚えられない人を、身体的特徴で覚えている事。 例えば「先日営業に来た、ハゲの人・・・ウ~ん名前が思い出せない!」とか、「あなたの友人の中で、一番チビだった人」など、名前より身体的特徴の方が覚えやすいのです。
それは、何の特徴も無い人より「人に覚えてもらいやすい」と言う特徴なのです。 しかし、そう言った身体的特徴を持った人は、その事に対してコンプレックスを持っています。 その自分が持っているコンプレックスは本当は社会生活の中では最強の武器なのです。 例えば、頭のハゲた営業マンが「ハゲの鈴木です」などと自己紹介すれば、一発で人に覚えてもらえます。 これが、営業マンとしてどれだけ有利な事か、それだけではありません、自分でハゲと言う事で相手に対して「面白い人」と言う印象を与えます。 営業先の人は、最初は構えています。 そこで、最初の自己紹介の時にさりげなくギャグを入れると、構えていた心が緩みます。 しかも、鈴木などやたら多い苗字の場合、相手の記憶に残りやすいのです。
人は明るく楽しい性格の人の周りに集まります。 そして人は暗く陰湿な性格の人を敬遠します。
ここで少し考えて見てください。 軽い冗談で「デブ」と言われた人の態度による違いを・・・ デブと言われて怒ったり暗くなったり、泣いたりした場合「冗談が通じないのか?」「悪い事言ったかな?」などと思い、そんな事が続けばその子とは話したくなくなります。 つまり、仲間はずれの始まりです。 ネット的に分かりやすく言えば、ノリで賑わっている掲示板で、マジレスしたり、見当違いな事ばかり書いているような奴って、しらけたり、何か言ってやりたくなりませんか?そして、何を言っても駄目な奴には「スルー」や場合によっては「アク禁」しますよね。 それの子供版です。(子供同士の会話ってノリの部分が多いですから)
逆に、デブと言われて「そんな事言うなブー!」などと、冗談で切り替えしてきたら、話をするのが楽しくなりませんか? そして、周りの雰囲気が明るくなりませんか? さらに、自分で自分の気にしていた事を自分からアピールして、それで笑いが出て話が弾めば、その事が楽しく思えるようになってきます。
教育の問題はそのあたりにあると思います。 ノリで賑わう掲示板などのマジレスは、そのマジレスした人に注意したりしますよね。 しかし、教育の場ではその逆です。 確かに、人を傷つけるような発言は注意すべきなのですが、場の雰囲気(空気を読めない)に関する事や、物事の受け取り方なども指導しなければ、いじめ問題の根本的な解決は出来ないと思います。
また、そう言ったコンプレックスを抱えたままでは、自分の事では無い話の中の「デブ」と言う単語に対しても、自分の事を言われていると勘違いしてしまいますし、そう言った感覚の持ち主は、他にも沢山傷つくキーワードを持っています。
そのまま成長すれば、被害妄想的因子を育みながら成長していく事になります。 私の小学生時代の体験なのですが、小学3年の時に友人と廊下を歩いていた時に、デブの話をしていていたら、いきなり上級生に殴られました。 その上級生は、自分の事を「デブ」と言われたと思っていたのです。 誰もその上級生の事をデブと言っていないのに、自分が太っているから自分のことをデブと言われたと思い込むのです。 これが、被害妄想的因子なのです。
学校生活など教師に守られている間は、いじめる側を処罰していれば良いのですが、社会に出てからは誰も守ってはくれません。
結局「いじめ」を無くす事を大義名分として、精神的虚弱体質の子供を育てている事になっていると思います。 いじめ問題などは、小学の低学年の時の友達との会話の中に「いじめ」の要因が発生しています。 その低学年の時に「いじめ」の兆候を見逃さない事が大切なのです。
誤解が有るといけないので、精神的虚弱体質について少し補足説明しておきます。
精神的虚弱体質をなくすと言う事は、強い心を持つと言うことではありません。 人の心なんて物はそんなに簡単に強くなるものではありません。 要は「いなし方」や、物事の別の見方を覚える事なのです。
また「いじめ」問題の解決を図る事を考えた場合、今のように「いじめた側」だけを問題視するならば、学校の様な閉鎖的社会では何とかできるかもしれませんが、一般社会では社会全体を変えなければ問題は解決しません。 しかし、それは不可能です。 しかし、自分を変えるだけで問題を解決できるならば、その方が現実的であり、即効性があると思います。 少なくとも私の娘は自分を変える事で、180度違った学生生活を送る事に成功しました。
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価値観の多様性が無い子供
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最近の子供たちは、価値観の多様性にかけていると思います。 例えば「ルーズソックス」などが代表的で、誰でも同じファッションで個性がありません。 また「同じファッションをしていないと仲間はずれにされる」なんて話も聞きます。 他人の目を気にして本来の自分を出せない、言い換えれば「自分」がないのです。 マスコミの報道やインターネットの情報なども、何の疑問を持たずに信じてしまいます。
学校の授業を例にとってご説明します。 学校で習う「三角形の証明」が有効なのは平面においてだけです。 地球の北極点を頂点に、赤道までの直角二等辺三角形を描けば、それは直角正三角形になり三角形の定義である角度の合計が180度になりません。 まあこれはユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の違いですが、三角形の定義を非ユークリッド幾何学でも同じ(非ユークリッド幾何を知らなければ)に考えれば当然間違った答えになります。 このユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の話は一つの例え話ですが、同じ三角形でも描いてある所によっては三角形の定義は当てはまらないのです。 地球上に三角形を描く場合でも、小さな三角形には曲面の影響はほとんどありませんが、大きくなるにつれて曲面の影響が出てきます。 また、蝋燭で動く「ポンポン船」は、手のひらサイズのように小さければ動きますが、同じ原理を使って人が乗れるように大きくしても全く動きません。 これを「現実効果」と言います。 この様に、確かな定義や理論が存在しても、大きさや曲率などの係数が必要な物が沢山あります。 その係数を無視(知らない)して考えてしまう事が「似て非なるものによる妄想」の根源です。 また、価値観の多様性が養われずに育つと、自分の知識が正しいと思い、異なる価値観を受け容れ難くなったりします。 実際に、学校で習った事でも、厳密に言えば間違っている事が多いのです。 例えば「鉄は錆びる」「水は電気を通す」は常識のように思っていますが、実際には間違いなのです。 鉄はFe(純鉄)だけなら滅多に錆びません、錆びるのは不純物が混ざっているから錆びるのです。 水はH2O(超純水)だけなら電気を通しません、水の中に溶け出したナトリウムイオン等が電気を通すのです。
話は変わって「正義」と言う概念も、実は一つではありません。 正義と言う概念はそれぞれの立場で違います また「正義の味方は何をやってもよい」など、間違った感覚を持って育つ子供も多いように思います。 代表的な物に「ジャックと豆の木」と言うお話があります。 あのお話は、見方を変えれば「強盗殺人犯が幸せになるお話」とも言える訳です。 かの「アンパンマン」も「キラキラ星の涙」というビデオの「氷の女王」のシーンで「強盗殺人をして、しかもそれは探していた物では無く、勘違いで女王を殺し、反省も無い」シーンがあります。 そう言った物語やアニメを何の疑問も抱かずに育つと「正義は何をやってもよい」と言う考えが心に宿ります。
私は、意地悪なので子供が学校で習ってきた事やテレビ番組などに対して、必ず「アンチテーゼ」を出して異なる価値観がある事を自分で考えさせました。 例えば、前述したアンパンマンのビデオを一緒に見ていた時に「アンパンマンは極悪非道な奴だな!」と言うと、子供は「アンパンマンは悪くないの!」と言うのですが「勝手に人の家に忍び込んで、見つかったら殺してしまったじゃないか!これって、強盗殺人じゃないの?」と言った具合に、別の価値観を教えていくと、他のビデオを見る時にそう言った観点でも見るようになり、一人でテレビを見ていて、同じような矛盾を見つけると、自分で見つけた矛盾を一生懸命教えてくれるようになります。
この「価値観の多様性」と「他人から見た自分の想像」と「経験値」は密接に関係しています。
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失敗を恐れる子供、責任を回避する子供
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これは「経験値を持たない子供」と同じ事なのですが、重要なポイントなので別項目にしました。
最近の子供は失敗を恐れます。 失敗して恥をかくとか、失敗したら責任を取れとか、失敗すると格好悪いとか、人生を失敗しない為とか、失敗すると時間の無駄など、色々な理由を付けて失敗する事を恐れます。 これは、学校だけでなく家庭の教育が問題だと思いますが、そこが大きな間違いなのです。
失敗はかけがえの無い財産なのです。 世の中には失敗しなければ見えない事が沢山あるのです。 失敗を経験し、その失敗を克服した経験を持たずに成長すると、失敗するとすぐに挫折したりします。 これも「経験値」なのです。 やはりこう言った失敗なども、幼少の頃より何かに失敗したら、失敗した事を責めるのではなく、どこが間違っていたかを自分で考えさせて、次に生かすと言う教育が必要なのではないでしょうか? 現代人は、上手く行かない事や失敗を他人のせいや何かのせいにしようと考えがちですが、それでは原因を見過ごす事になり同じ失敗を繰り返す事になりかねません。 「責任」と言えば「賠償問題」など「罪」としての意味として使いがちですが、賠償問題などは責任の一つの形態でしかありません。 失敗=責任と言う構図は一般社会を含めて是正した方が良いと思うのですけどね。
企業にしても、一つの製品を作るために試行錯誤を繰り返し、色々な失敗を生かしてより良い製品を作ります。 そしてその失敗の数だけ「ノウハウ」と言う名前の財産になります。 失敗しなければ見えて来ない物を、いくつも経験する事でよりよい物を作る事が出きるのです。
また、責任を回避する行動や言動にも問題があると思います。 それは、裏を返せば「責任感の無い子供」と言う事です。 それは、子供社会だけでなく一般社会も同じです。
以前、私が防犯カメラを設置した書店の経営者からこんな話を聞きました。 その書店で万引き事件が発生しました。 ここまでは、良くある話です。 そこで万引きをした子供を捕まえた所からこの話は始まります。 そこのご主人は、その子の事を考えて、その子に学校に言った方がいいか、ご家族の方に来ていただいた方がいいのか聞きました。 すると、その子は「親の方が良い」と答え、親御さんに来ていただいたそうです。 ここからが、問題の発生です。 その子は捕まった時点で「犯行を認めていました」が・・・ 親御さんにつれられて帰った後で、前言を撤回、やっていないと主張し始めたのです。 そのため学校へも通報する事になりました。 そこから、親の逆襲が始まり、結局、学校を巻き込んだ泥沼へと発展していきました。 犯行は、防犯カメラにしっかり映っていて言い逃れる事は出来ませんが、それでもやっていないと主張する為、学校側が防犯ビデオに写っているなどと問い詰めた結果、ついに自供しました。 そこで分かった事実が、親に「絶対認めるな!認めたら負けだぞ!」と言われていたのです。 その後、親との話に発展して行ったのですが、その親の言い分が「店から30M離れてからでないと、万引きにはならないと言う番組(とある法律番組)を見た事が無いのか!そんな事は誰でも知ってる常識だろう!」と言うのが親の主張だった訳です。 しかも、その親御さんは東海地方では有名な某ガス会社の重役なんですね。
その他にも日本の経済低迷の縮図を見るかのような事ですが、私が新商品を持って営業に回っていた時の話です。 何度も足を運んで商品説明をして、担当者からは「これはすごいですね」と言う言葉まで貰っても、その商品を導入する企業はごく僅かでした。 口を揃えた様に同じ理由が口から出てきます。 それは「もしこの商品が売れなかったら、私が責任を取らなければいけないので、何処かが成功したら我社も取り扱う」と言う訳です。 それに比べ、韓国や台湾の業者はバイタリティーが違います。 「売れるかな?」と思った物はとりあえず売ってみて、売れなかったらすぐ止めるのです。 今、面白い商品や変り種の商品はほとんどが韓国や台湾製で、その商品が売れれば日本のメーカーも参画する有様ですが、製造コストの面で韓国や台湾、さらには中国製にはかないません。 向こうの人に話を聞くと「売れるか売れないかは、売ってみなければ誰にも分からないのに、売れなかったら責任と言うのはおかしい」と言っていました。
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父性と体罰の欠如と学校の威厳の低下
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父性の欠如とは、子供をしからない親が増えた為、父親を怖がらない子供が増えています。 母親が叱っても、うるさいだけであまり怖くありません。
父親が怖くない子供は無敵です。 学校の先生のキメ台詞「親に言うぞ」は通じません。 その結果、教師の指導力の低下を招きます。 結局、学校の指導力を低下させているのは「家庭」なのです。
この父性の欠落を演出しているのが母親で、父親がいない時に子供の前で父親に対する愚痴を言ったり、悪口を言ったり、家庭内での父親の存在を貶めていたりする事により、序列意識の崩壊を招きます。 夫婦喧嘩は子供のいない所で、子供の前で父親の悪口や愚痴を言わない事が大切な事なのです。 人間は集団生活の動物で、基本的には序列社会でありその最小単位が家族です。 犬も集団で生活する動物で、家族内での序列が狂っている家庭で飼われている犬は、序列意識が狂ってしまう事があります。 例えば、父親が疎外されている家庭の犬は、母親は自分を可愛がってくれるから自分は母親より上、その子供は母親より下だから自分より下、父親は母親に相手にされていないから自分より下、だからこの家族集団の中での自分の序列は一番上と言う序列意識を持ち、父親などから叱られたりすると、牙をむいて怒る場合があります。 子供も、この様な序列意識の崩壊により「間違った根拠の無いプライド」が育成される原因が生まれます。
また、体罰を与えなくなっている事も問題と思います。 特に幼年期の体罰は「叩かれると痛い」と言う事を、深層心理に埋め込む為には必要であると思います。 これは、第一次反抗期以前から行う必要があります。 (感情的な体罰は厳禁、あくまでも冷静に叩く場所や程度を考えて行う必要があります) ただし、しっかりと愛情を注いだ上での体罰である必要があるのです。 場合によっては叱りたくも、叩きたくなくても、その子の将来を考えると無理にでも叱らなければならない場面もあります。 トラウマと言う言葉が有りますが、幼年期に体罰を加える事で心にトラウマを作る事は大切な事なのです。 私は結構不良少年をやっていましたが、親に手を上げたことは一度もありませんでした。 それは、良い子だった訳では無く、体が動かなかったのです。 また、万引きに対しても体が拒絶して、体が動かなくなります。 これらは幼年期に親の金を盗んで、お菓子を買ったのを父親に見つかり、こっぴどく殴られた事に起因しています。 その時の体罰が、心にトラウマを生じさせて体を動かなくさせているのです。
実は、自分の娘で実験して成功しています。 小学4年の時、私の部屋に置いてあった貯金箱の100円玉や500円玉が無くなっている事に気付きました。 そして、再度100円や500円を入れて様子を見ましたが、やはりなくなっています。 そこで、娘の留守中に部屋を調べると「ビックリマンチョコ」が山ほど見つかり、さらに「ポケモンカード」も山ほど見つかりました。 そこで、娘が帰ってきてから「そのポケモンカード、どうしたの?」と聞くと「友だちから貰った」と言うので「ふ~ん!」と言って、一旦、娘の部屋から出て、貯金箱を持ってまた娘の部屋へ行き、その貯金箱を娘の足元に投げつけて、黙って娘の部屋から出てきました。 すると、娘が真っ青な顔をして「ごめんなさい」と謝って来たのですが、ここで許したら「謝れば許される」と勘違いをしてしまう事が予想されますので、まずお尻に蹴りを一発入れた後に「黙っていたらばれないと思っていたのか!」とビンタをかまし「泥棒してごめんなさいと言えば許されると思っているのか!」と2発目のビンタ食らわし「泣いて許されると思っているのか!」と尻に蹴りを入れ「ごめんで済んだら警察は要らん!」と3発目のビンタを食らわして、肉体的なトラウマを植えつけた跡に、「自分の子供が泥棒だったなんて、そんな悲しい事は無い、お前がそんな事をする子だとは思わなかった」と精神的なトラウマの導入部分を作った後に「こんな泥棒は家に置いては置けないから」と、車に乗せて真っ暗な公園まで連れて行き「ここでお前を捨てて行くから、誰か泥棒さんに拾ってもらえ」と、暫く置き去りにして精神的なトラウマを植え込みました。 しかし、体罰している時に、その言い訳で「私も幸せになりたかった」等と言う物ですから、笑えてくるのを必死に押さえて怒った表情を維持しながら体罰を加えるのは、結構大変でした。 その結果、それ以後は道に落ちていた10円も交番まで届け、洗面所に落ちていた小銭も「お金が落ちていたよ」と正直に持ってくるようになり、その一つ一つの行為を褒めてやりました。 その結果、狙い通りの結果が出ましたが、ちょっとやりすぎたようで「ご自由にお持ち下さい」と書いてある物も、お店の人に「もらってもいいですか」確認しないと取れなくなってしまいました。
こう言った事をするには、普段からの信頼関係とコミュニケーションが大切です。 私は、よく子供とニュースを見ますが、特に少年犯罪などのニュースを見ながら、独り言をつぶやきます。 その話の中で「自分の子供が可愛いのなら、悪い事をしたら引っ叩いてでも教えんか!」と独り言のようにボソッと言うのですが、実はこれも作戦で「子供を叱るのは子供が可愛いから、子供の為に」と言う事を「悟らせる」為に行うのです。 面と向かって言うのではなく、独り言のように言う所が味噌で、面と向かって言えば「言うだけ」のように聞えますが、テレビを見ながら独り言のように言って、自分で悟らせると非常に効果が高いのです。
幼年期の体験は理屈ではなく、心に刻まれます。 体罰を受けていなければ、暴力の痛みを理解しません。 体罰に限らず、裁縫などで針を指に刺してしまったり、工作でナイフで指を切ってしまったりする体験は、人の痛みを理解するためには必要な事なのです。 本来は、こんな事は子供同士の遊びの中に全て含まれていた事なのです。 木登りをしてトゲが刺さったり、転んですりむいたり、喧嘩して殴りあったりして経験してきましたが、最近は「危ないから」と言って最初から危ない事はさせませんし、外で遊ぶ子供がものすごく減りました。
スプラッター映画などで、残虐なシーンを見ると目を背けたくなるのは、そのシーンを自分に反映して「自分だったら嫌、されたくない」と感じるからです。 しかし、刺される痛みや殴られる痛みを自分で体験していなければ、自分の痛みとして反映されず「スゲー!」と言う感覚になります。
幼年期を過ぎて知恵が付き出すと「ずるがしこく」なります。 同じ怒られるのでも、幼年期に体罰で心に刻み込まれれば理屈ではなく体が拒否しようとしますが、知恵が付き出してからでは「ばれないように」など、ずるさが出てきますし反抗もします。
但し、愛情の無い体罰はただの暴力でしかありません。
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いじめの原因は現代の妖怪?
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ここまで、コミュニケーション不足や経験値など色々書いてきましたが、それらを総合した人間の本能の部分があります。 それは「人間は理解できない物に不安を感じ、恐怖する」と言う事なのです。 人間は昔から妖怪や幽霊など得体の知れ無い物に恐怖を覚えてきました。 現代でも幽霊を見たと言う人は「恐怖の体験」と言いますが、もし幽霊が科学的に説明されて一般的にいつも目の前にいる物であれば誰も怖がったりしません。
言い換えれば、幽霊や妖怪が怖いのではなくて「理解出来ない物」が怖いのです。
この理解出来ない物こそ「現代の妖怪」なのです。 現代社会は、妖怪と言う非科学的な物を否定しながら「科学的」「合理的」と思い込んで作り上げた「現代の妖怪」がうごめいているのです。
代表的な物が「電波系」の人達が言っている「脳波盗聴」等で、彼らは自分にしか聞えない「声」を理解しようと「脳波盗聴」なる物を考え出したのですが、原因は「精神疾患による幻聴」です。 これなどは、科学的と思い込んで作り上げられた「現代の妖怪」の代表ですね。
しかし、事の大小は有りますが、もっと身近にこの現代の妖怪はいるのです。 それは、自分以外の人、つまり他人です。
昔は町のコミュニケーションが充実していましたが、最近は「隣の人がどんな人」かも知らない人が増えています。 これは、単に隣人と言うだけでなく、外国人や学生など幅広いものがあります。 外国人などは言葉が通じなくてコミュニケーションがとれない場合が多いですし、学生なども「最近の若い奴らは何を考えているか分からない」に代表されるように、年配者と若者とのコミュニケーションもあまり取れていません。 つまり、コミュニケーション不足なのです。
いじめも、いじめられる人の多くが「自分の主張をハッキリと言えない人」です。 この「ハッキリと」と言う意味も「言わない・声が小さい・うつむきながら喋る・言いかけて止める」など色々な意味を含んでいます この代表的な言葉が「何を考えているのか分からない」などと言う物があります。 これらは、一度や二度程度のすれ違いではなく、小さな事の積み重ねが臨界点を超えると徐々に爆発します。
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主観的言葉に翻弄される社会
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主観的な決まった意味の無い言葉が横行しています。 「セクハラ」「ストーカー」などはその代表格です。 それらの言葉の定義付けはされてはいますが、自分勝手な使い方をされているようです。 同じ行為をされても、その対象者によって使い分けがなされます。
「セクハラ」や「ストーカー」と言う言葉の意味は「好きな人にされるとうれしい事を嫌いな人からされる事」で、主観的な感覚で使い分けられているように思います。 いじめも同じです。 いじめも、嫌がらせも、その人がいじめや嫌がらせと思えば、いじめであり、嫌がらせになってしまいます。
他人から見た自分の想像の章で説明しましたが、そのいじめや嫌がらせの代表格が悪口で、その悪口も自分の主観的な価値観で悪口に聞こえているだけです。
例えば「ブス」と言う言葉をよく使います。 でも「ブス」と言う言葉をよく考えてください、その意味は「自分の好みの顔では無い」と言うだけです。 美的感覚は時代と共に変化します。 平安美人は福笑いの顔です。 それを現代でも美人と言えるでしょうか?でも平安時代は美人とされ、絵巻物でその容姿を垣間見る事が出来ます。 また、現代においても好みは千差万別で、多数派の好みが美人とされているだけです。 もう少し掘り下げると、顔はその人の内面が出ます。 どんなに顔立ちが悪くても内面に光る物があれば魅力的な顔に見えますし、どんなに顔立ちが良くても内面がすさんだ人は冷たい顔に見えます。 芸能界を見ても、顔立ちのいい人だけが人気がある訳ではありません。 顔立ちの悪い人でも人気の有る芸能人は沢山います。 それはその人に顔ではない魅力が有るからでは無いでしょうか? 自分は「ブス」と思い込んでいるその心が、様々な曲解を生じさせて人格形成されて行き、それが顔に表れるのではないでしょうか?
同じような物に「ファッション」があります。 私の高校生時代「ベルボトム」なるラッパズボンが流行りましたが、その当時はそれがカッコいいと思っていましたが、十年ほどして当時のファッションを見ると、あんな格好をしていたのかと思うと恥ずかしい物があります。 カッコいいとかかっこ悪いとかそんな物も時代が変われば価値観も変わり、当時ダサいとされていたファッションでも数年経てば流行の先端と言う事もしばしばあります。 つまり、こう言った事は主観的な価値観でしかなく、絶対的な価値観ではないのです。 そして、身体的なコンプレックスを持っている人は、そのコンプレックスの部分を隠そうとして「隠そうファッション」になりがちです。 しかし「隠そうファッション」は逆にコンプレックスを持っている部分をクローズアップしている結果になっている場合が多く、それが他人から見ればおかしく見えるのです。
自分の勝手に思い込んでいる主観的な価値観によって、他人の言葉が悪口にも誉め言葉にも聞こえるのです。
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一歩前に出る心
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暴力的ないじめを苦に自殺する子供。 少し考えてほしい「一番痛いのは体の痛みよりも、心の痛み」である事を。 暴力行為を受けているのなら、どうして反撃しないのだろう。 一発だけでも意地の反撃をなぜしないのだろう。 暴力的ないじめは、相手が反撃して来ないと思っているから、繰り返ししてくるのである。 自殺するだけの勇気があるのなら、ボコボコにされてでも、意地の一発をなぜ入れられないのだろうか? その一発は、人間の尊厳をかけた一発で、それを暴力行為と非難する奴には言わせておけばよい。
少なくとも、殴られても向かってくる相手は怖い物である。 一度でも、反撃されれば一目置くようになる。
格闘技の一つの極意に「一歩前に出る」と言う物がある。 これは、殴られる時に避けるよりも、一歩前に出て受ければダメージは少なく、こちらも間合いに入れるからである。 例えば、剣道で使う竹刀は剣先と鍔の間に中結と言う物がある。 試合の時、剣先と中結の間で打たなければ、一本にはならない。 これは、真剣で切る時に、その部分で切らなければ相手にダメージを与えられないからである。 つまり、相手が切りかかって来た時に、後ろへ逃げれば一番切れる所で切られてしまう可能性が高くなるが、一歩前に出れば、さほどダメージを受けないのである。 パンチでも同じで、パンチの最大の威力が出る所は、腕が伸びきった時である。 しかし、一歩前に出れば腕が伸びきる前なので、相手のパンチの威力を半減させる事が出来る。 動物の、爪でも同じ事が言える。 猛獣の爪は、カギ爪である。 このカギ爪は逃げようとすると食い込む様に出来ている。 逆に、一歩前に出て近付いてしまえばカギ爪を外す事が出来る。 そして、動物は逃げる物を追いかける習性がある。 それは、人間も同じ。 そして、それは心も同じ事なのです。
参考程度に、私の高校時代の事を少し書きます。 私の通っていた高校は、その当時では名古屋で1・2を争う不良校で、そのライバル校に某民族的な高校がありました。 ある時、私は中学校の友人達と近くのスーパーのゲームコーナーで遊んでいました。 その時、友人達が一斉に「逃げろ」と言って走り出したのです。 私は訳も分からず「ん~?」と首を傾げていました。 そこへ、ライバル校の生徒が5人ほどやって来て私を取り囲みました。 そして、そいつらは「お前、あいつの連れか?」と聞くので、私は「そうだ」と答えました。 そいつらが言うには「お前のつれが、俺たちにガンを飛ばしてきた」という訳です。 そして「お前が落とし前をつけろ!」と迫ってくるのです。 そこで、私は「どんな落とし前を付ければいいんだ?」と聞くと「一発殴らせろ!」と言いました。 私は「殴ればいいだろ!」と言うと「ほんとに殴るぞいいのか?」と言うので「好きなだけ殴れよ!」と言って頬を出しました。 そいつらは「本当に殴るぞ!いいんだな!」と言って振りかぶりました。 その時、私は「痛くしないでね~!」と冗談半分で言うと、そいつらは急に笑い出し「お前何処の高校だ?」と聞くので「○○高校だがや!」と答えたら「さすが○○高校だな、あいつらとは根性が違う」と言い、それから仲良くなってしまいました。 しかし、私の友人達は地下鉄の駅でそいつらを見る度「やばい!隠れろ!」と言って脅える羽目になっていました。
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自分に自信の無い子供
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最近の子供を見ていると、自分に自信が無かったり、根拠の無い自身を持っていたりしているような子供が多いように思います。
なかなか言葉に表せないので、私が昔熱中していた「柔道」の話をします。 柔道は技を覚える時に、自分の体格などに合わせて自分の得意技を一つ選びます。 そして「その一つの技」を何度も何度も毎日練習するのです。 それは、柔道をやっている間変わることなく練習します。 これは自分の一番自信の持てる一つの技を作るためなのです。 他の技は、その得意技からの変化技や「崩し」のために使うアプローチ技で、基本は一つの技なのです。 この絶対の自信を持つ一つの技があるから、変化技などが生きてくるのです。
しかし、絶対的な自信の持てる技を作らず、色々な技を覚えようとすると柔道はいつまでたっても強くなりません。 若い時は、色々な技を覚えると「カッコいい」等と思いがちですが、結局何一つ上手くならずに中途半端でやめてしまいます。
一つの技だけを繰り返し練習すると言う事は、柔道を覚える非常に重要なプロセスなのです。 まず一つの技を毎日練習する事で、その技に対する絶対的な自信が持てること。 もう一つ、柔道の極意である「崩し」を体で覚える事なのです。 柔道の技は、どんな技でも技を掛けられる前に、投げられる体勢にされています。 それが「崩し」なのです。 しかしこれは頭で理解していても簡単に出来る物ではありません。
一つの技を繰り返し練習して「崩し」を体得するわけです。 そして、崩しを体得すれば、他の技にも応用できるので、他の技の習得も早くなります。 しかし、最初から色々な技を覚えようとすると「崩し」を体得できず、上達せずに中途半端で終わります。
これは、実生活でも同じで、何かに真剣に取り組んでいる人は、他人からも認められますし、自分に自信がもてます。 しかし、何にでも手を出して中途半端に出来るようになっても、器用貧乏なだけで本質を体得する事は出来ません。 本質を体得できれば、それは色々な事に応用が出来るようになるのです。
そして、その自身が顔に現れます。
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性の抑圧
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以前、中華料理屋で食事をしていたら、隣の席の女性がこんな話をしていました。
子供のエロ本の話なのですが「私の息子がそんな物を見るのは絶対許せないし、許さない」と言っていました。
しかしそれは、性や人格形成の健全な育成を抑圧しているのです。
地球上の存在する全ての生物の存在意義は子孫繁栄で、人間も例外では有りません。 その為の本能が性欲です。
エロ本や女性の裸に興味を持つ事は、正常に育っていると言う事なのです。 私にも経験がありますが、エロ本を買ってきても親に見つからないように隠します。 それは、羞恥心も正常に育っていると言う事なのです。
親としては心配な面もあるかもしれませんが、それは見て見ぬ振りをするのが良いと思うのですけどね。
しかし、母親などは「こんないやらしい本」などと言って叱ったりします。 でも、性欲は自然な衝動であり、叱るべき事では有りません。
性犯罪が急増したのは、売春防止法施行後です。
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笑い
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笑うと言う事を少し考えて見ましょう。 いろいろな動物の中で、笑う事が出来るのは「人間」だけです。 しかも、生まれたばかりの赤ちゃんでも笑います。 そして、人種を超えて全ての民族の赤ちゃんは笑います。 それは、全ての人類共通の本能と言う事なのです。 赤ちゃんは、泣くか笑うかしか出来ません。 そして赤ちゃんは、自分では何も出来ません。 誰かに何かをしてもらわなければ何も出来ないのです。 つまり、笑う事と泣く事は、人間にとって本能的に持っている一番大切なコミュニケーション能力なのです。 笑顔は感情表現の他にも「敵意」の無い事を伝える表現でもあります。 例えば、初対面の相手に笑顔で対すると言う事は、相手に対し安心感を与えます。 しかし、初対面の相手にまじめな顔で接すれば、警戒感を与えます。 そして何より、人は楽しい人を好みます。 友達と話していて、話が弾まなければ楽しくありません。 友達は、一緒にいて楽しいから友達なのです。
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どうにもならない事
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人には理屈で分かっていても、どうにもならない事があります。 それは「生理的に受け付けない相手」です。 これは、理屈ではないので「何故?」と言う事は本人ですら分かりません。 私にも経験が有りますが、その人の「声」を聞く事に不快感を感じる事がありました。 まあこれは調べた訳ではなく、単なる推測ですが「その人の声の周波数(成分)」に不快感を感じていたのかもしれません。 例えば、人にはそれぞれ嫌いな音がありますよね。 硝子に爪を立てる音を聞くと、鳥肌が立つとか言う奴です。 私などは、マジックで紙に書く音など非常に苦手ですし、HBより硬い鉛筆で書く音も嫌いです。 そう言った不快を感じる音の成分が、その人の声に入っていたのではないかと思います。 そして、人の嫌いな音にも個人差がありますし、嫌悪感を感じる物にも個人差があります。
私の知り合いに「エクボ」が嫌いな人がいました。 エクボを見ると「針で刺された穴」を連想してしまい、生理的に見たくないと言っていました。 私にも嫌いな顔はありました。 今では一人も見かけなくなりましたが、昔は「青鼻」で鼻の下がゴベゴベになった子供が結構いました。 私はそれが苦手でした。
こう言った「生理的に受け付けない人」に対してはなるべく近くに行かないとか、近くに来たら自分が何処かに行くなどの対応をする訳ですが、それはその人にとっては「シカト」に思えると思います。
しかし、生理的に受け付けない物はどうしようもありません。
極端な例ですが「ゴキブリ」などはその代表的なものだと思います。 私が、大学生の頃の話ですが、北海道から来た先輩は、ゴキブリを1.5リットルサイズのコーラのビンに山ほど飼っていました。 先輩に話を聞くと、北海道にはゴキブリがいないので新種の虫だと思って集めていたのです。 その他にも私の妻はフィリピン人ですが、結婚してすぐの時に部屋でゴキブリが出て、私が殺虫剤を持って追いかけていたら、妻はそのゴキブリを手で掴んで窓から捨てました。 妻が言うには、「ゴキブリの何処が怖いの?ゴキブリは何もしないでしょ!フィリピンで怖い虫はサソリよ!」 なるほど、言われて見ればゴキブリは蚊のように刺すわけでも、ハエのようにブンブンうるさい訳でも無く、ただ生理的に嫌いなだけです。 以前、化学番組でもやっていましたが、ゴキブリは体から殺菌作用のある物質を出してるので、ゴキブリより人間の手の方が何倍も不潔で、そのゴキブリをさらに滅菌消毒して無菌ゴキブリにした物を触れますか?と言った番組だったのですが、私は無菌ゴキブリと言えども触る事は出来ません。 それは理屈ではなく生理的に受け入れないのです。 人間には、理屈では分かっていてもどうしようもない事があるのです。
これは結構難しい問題だと思います。 生理的に嫌いな特徴を持っている人と仲良くしなさいと言われても、それは「硝子に爪を立てている音が充満している部屋で我慢しなさい」と言っているのと同じで、それは拷問ですし、かと言って「お前の声が嫌い」なんて言えば相手を傷つけてしまいます。 本当は、お互いが理解し有って近寄らなければ良いのですが、そんな事は周りの人には理解させれませんし、話して何とかなる問題でもありません。
実に困った問題ですね。
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私のいじめ体験と波乱万丈の人生
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私は小学1年から2年にかけて「先生主導のいじめ」にを受け、小学3年以降は学校でも指折りのガキ大将になっていました。 先生から、いじめを受ける要因になった事は、私が小学校に入学してすぐの事ですが、雨が水溜りに落ちるのを延々と眺めていた事が原因らしいのです。 その頃の私は、水溜りに落ちる雨の波紋が不思議で「波紋同士がぶつかってもすり抜けて広がっていく」のを見ながら「どうして波紋同士がぶつかって、そこで止まらないのか」を考えていました。 その姿を見てその時の担任が「低脳児」と判断したらしいのです。 母から聞いた話によると「あんたの子供は、いつまでも水溜りを見ている。そんな事をするのは知恵遅れの子供だ」と言われたそうです。 その後、クラスの誰かの物が無くなれば、先生が「お前がやったんだろう」と言われ、後日犯人が分かっても謝罪は無く、窓ガラスを誰かが割れば「お前がやったんだ!」と決め付けられ、そんな事が続くとクラスの皆もそう言う目で見るようになり、孤立無援でした。 そればかりか、テストで90点や100点を何回取っても通知表は5段階評価の3を超える事は無く、70点や60点のPTA役員の子供は「5」を取る有様で、母が「テストの点が良いのに何故通知表が悪いのかを先生に聞けば「5は学年でいくつ出すか決まっているから、他のクラスにあんたの子供より点数の高い子供が多いから」と言われ、どんなに勉強をしても、どんなにテストの点が良くても「通知表の成績」は一向に上がりませんでした。 結局、テストで何点取っても成績が変わらないので勉強しなくなっていきました。 クラスで問題があれば全て私のせいにされ、、勉強でも駄目となれば、自分を主張する道は暴力しか有りません。 その後は、少しでもなめた口を利く奴がいれば、有無を言わさず「パンチ!」 いじめっ子の誕生です。 小学5年になれば学校でも1.2を争う問題児に成長していました。 その反面、怖がられている自分も自覚していて「このままでは駄目だ」と悩む小学生時代でした。 そして、中学進学と同時に自分を変えました。 どう変わったかと言えば、なるべくユーモラスに、いつも明るく、と言うよりも本来の自分をそのまま出したと言った方が正確ですね。 小学生時代は「なめられないよう虚勢を張っていただけ」です。 その後は友人も順調に出来て、普通の学生に戻りましたが、小学生時代を知っている友人は困惑していました。 中学3年の時に、小学生の時も同じクラスだった女の子が「近寄るだけでも怖かったのにどうしてそんなに変わったの?」と聞かれた位です。
しかし、小学生時代からの一番の不良のライバルだった奴は、中学でも授業中に先生にナイフを投げつけたりする行為を繰り返し、クラスの中でも恐怖の存在に成長していました。 いつもギラギラして「近くに来る奴は切り刻む」と言った印象になっていましたが、何故か私には素直に話をしてくれました。 そいつに「いつまでもツッパリやってても仕方が無いぞ」と忠告していましたが「いまさら変われない」と拒否されました。 そして、そいつは中学二年の時に「施設送りに」なり、その後の消息は分からなかったのですが、20年後に「薬物中毒で廃人」になって帰ってきました。(同じ町内でしたので) あのギラギラしたナイフのようだった面影は無く、しばらくは一日中椅子に腰掛けて、ぼーっと空を眺めている姿を見かけましたが、その後見かけなくなりました。 まあこいつも可哀想な奴で、学校で喧嘩をして人を傷つける事が多かったのですが、その事に対してその親は「うちの子に限ってそんな事はしません」とかばい、自分が怪我をして家に帰ると、怪我をさせた相手の相手の家に怒鳴り込みに行く親に育てられ、自分の行為に反省する事が無い小学生時代を送っていましたからね。 私も何度怒鳴り込まれた事か・・・
高校時代は名古屋中から不良が集まるようなスポーツ学校へ入学し、中学までは学年でもTOPクラスの体格を誇っていたのが、その高校では並の体格。 高校一年の時は、サル山のボス決めの様にクラス内で喧嘩の嵐! ひたすら目立たなく、大人しくして一年を乗り切り、二年以降は「こんな楽しい高校生活があるのか?」と思うほどの楽しい高校生活! と言うより、馬鹿の集まりだから楽しかったのか? その高校は不良校で知られていましたが、実は不良校ではなく「硬派」の学校で「男」を重んじる学校でした。 万引きした奴らに「そんなに物が欲しいのか!」と罵り、彼女を妊娠させてしまった奴は「自分の責任だから生ませてやる」と言い、高校一年で学校を中退して彼女の為に働き、身体障害を持つ友人が下級生にからかわれていたら、そのクラスに殴り込みをかけ、卒業式の日にはクラブの顧問の先生が、卒業祝いと称し「ストリップ」に連れて行き、踊り子さんが「ご開帳」した時に見とれていたら、頭を引っ叩き「ご開帳したら拍手をするのが礼儀だろう!」と、ストリップ劇場でも教育を忘れない先生。 小学校の1・2年の先生とは大違いで、そんな先生が大好きでした。 しかしそんな高校生活の中にも、友人の自殺なども体験しました。 自殺の理由は、バイクで事故を起こして、親にバイクを処分され「バイクが無い人生なんて、生きていけない」と言う物で、悲しんでいいのか「馬鹿じゃねーのか?」と思う気持ちが入り混じった奇妙な感情でした。 そして、卒業アルバムには黒枠のそいつの写真が載っています。
そして大学へ進学して大学2年の時、親と喧嘩して「お前なんか出て行け!」の言葉に「出てったる!」と、売り言葉に買い言葉で最初の「勘当」を受け、一人暮らしを始めここから「苦学生時代」が始まりました。 バイトで生活費と学費を稼ぎながら学校へ行く事は、非常に厳しくバイトを少なくすれば生活費が足りず、バイトを多くすれば出席日数が足りません。 そんな学生生活を何とか乗り切り、と言っても中退しましたが、在学中に「起業」してしばらくは何とかやっていましたが、スキーバスの転落事故と共に私の仕事も転落しました。 と言うのも、私がやっていたのは「旅行企画」で、主力がスキーツアーだったのですが、それまでの成功の秘密は「北志賀」だったのです。 それまで全く人気の無かった「北志賀」で格安のツアーを組み、レンタルスキー無料で3食付がHITしたのですが、そのバスの転落事故の行き先が「北志賀」だった為「北志賀」は危ないと言う風評が立ち、申し込みは無くなり予約は軒並みキャンセルで、残ったのは赤字だけ。 つまり、事実上の倒産。
その赤字を、企画ツアーの合併で乗り切りったのですが、その会社も翌年の暖冬で経営危機に! 計算上は1000万の赤字になる所を、バスのチャーター代の交渉や新規格安ロッジの開拓などで1000万円の黒字に転換して乗り切り、恩返しをしてその会社を退社し、トップハントでエアロビクスのマネージャーに。 しかし、女性の裏側をまざまざと見ることになり、嫌気が差してまた退社。
そして不動産会社に就職してまたトップハントで別の不動産会社へ転職。 その不動産会社に就職中に、フィリピン女性と知り合い、当時日本女性に幻滅を感じていた私には、とても新鮮に思えて結婚する事に・・・。 その時に、親からは「東南アジアの女との結婚は認めん」と言われ「人種を理由に反対する事は人種差別差別じゃないか」と反発して2度目の「勘当」。 そして、マルコス打倒でクーデター最中のフィリピンへ渡り現地で結婚して日本に帰国。
しかし、今度は職場で「トップハント」で来た者に対する「妬み」が噴出と言うか、そこの社員の低脳さに嫌気も差していました。 どのように低脳か?と言えば、本社の営業課長の部下に新人の「おばさん社員」が居たのですが、最初の頃は売り上げも上がらず、毎日その課長のいじめの対象でした。 そかし、毎日まじめにポスティングなどをこなし、電話が入るようになって来ると、面白くないらしい。 ある時、その課長と上司である営業部長がとんでもない行動をしたのを目撃。 それは、その「おばさん社員の机の上の電話」をガムテープでグルグル巻きにして電話を受けられ無いようにしているのです。 空いた口がふさがらないとはこの事。 私の災難は、その課長と部長の子飼いの部下が私の下に配属されていた事で、その部下は自分が私のポストになれると思っていたらしい。 そんな奴らの系列と言う事は、当然そいつも大変な問題児で、入居契約した全ての若い女性客にアタックして、かなりの数の女性客をGETしていました。 そんな事をしていれば、会社の信用問題になるので、何度も「厳重注意」したのですが、彼にはそれが面白くないらしい。 恋愛は自由だとか抜かし、聞く耳を持たない。 そこで、受付をさせないようにしたら、今度はその部長課長のルートを使い、社長にある事ない事の告げ口攻勢が始まり、社長に呼び出しを受けた時に事情を説明したのですが、社長も「恋愛は自由だし」なんて事を言い出した物だから、社長と大喧嘩の末退職。
この時点で、人間関係に嫌気が差していたので、自分の腕だけで勝負する「職人」を目指し、建設機械のオペレーターになったのですが、今度は妻の妊娠と同時に「肺結核」が発覚。 共稼ぎで何とかやっていたのだが、妻は仕事をする事どころか出産や母体の命さえも危険になってきました。 治療をしながら、1年間何とか頑張ったのですが、出産を控えて出産費用も無くあるのは借金だけです。 そこで、破産を決意し破産宣告。 サラ金の取立てもこの時に思いっきり体験しました。 この体験は、その後に金融関係からの脅し文句「貴方の信用に傷が付く」と言う物にも屈しない経験になるのです。 妻が、通販で買いまくりフィリピンへ一時帰国した時、未払いの請求の電話が来て、初めて通販で買い物をしていた事が分かったのです。 通販会社は「すぐにお支払いして頂かないと、お客様の信用に傷が付く事になりますけどよろしいのですか」と言って来るのですが「無い物は払えん、金が出来たら払ってやる」と平気で言えるようになっていました。 そして「俺は破産宣告をしている、もうブラックに載っているんだよ、これ以上どうやって信用が傷付くのかね?」と言ったら、簡単に引き下がり「ご都合のいいようにお支払い下さい」と言う事になりました。 無くす物がないと言う事は、こんなにも強いものだとは思いませんでした。 友人から「金貸してくれ」と言われても「俺破産してるから金がね~!」と言えば諦めてくれるので、人間関係がギクシャクしなくて済みます。
そのオペレーターの仕事も、ゼネコン仕事が多い為、国会が空転すると、予算が下りない為に一ヶ月や二ヶ月は仕事がない事もあり、談合問題が浮上した時にはお先真っ暗になりました。 談合は下請けにとっては必用な事でも有るのです。 なぜなら、下請けの金額はここ30年間変わっていないのです。 談合があるから、下請けの価格も何とか保っていられるのですが、競争入札になれば煽りを食うのは「下請け」だけです。 そんなオペレーターの仕事に見切りを付けて、今度は大工仕事の修行を始めました。
その当時は、トップクラスのリフォーム会社の下請けで入り、3ヶ月で一人立ち。 それから暫くは破産で失った分を取り戻すかのように稼ぎまくったのだが、ここにも魔の手が忍び寄っていました。 このリフォーム業をしていると、防犯カメラの設置なども依頼されて防犯に手を付け、そこから現在の盗聴発見へと進んでいくのですが、最初はリフォームと兼業で盗聴発見と防犯を行っていました。 元請の下請け就業規則には「同業社の下請けの禁止事項」が有ったのですが、盗聴発見と防犯は同業ではないので堂々とホームページを立ち上げて営業していました。 魔の手はここに忍び寄ってきました。 その元請会社は、私が入社した当時の社長はガンで亡くなり、それを期に当時の社長室長が反旗を翻して会社を乗っ取り、古参の重役をすべて排除して行きました。 そして、自分の親族と自分に忠実な社員だけを重役にして行き、それまで50%成長を続けていた会社が一気に急落。 そして、職人の収入も一気に半減。 数年後にはそれまで100人いた職人も20人ほどに減り、いつ倒産してもおかしくない状態になって行きました。 その時、その重役達は会社の金の着服を始め、それが発覚し始めて社長が調査を命じたのですが、その命じられた奴が「張本人」で、それがスケープゴートに選んだのが、私のホームページでした。 そいつは自分の嫌疑をそらす為に私をスケープゴートにした訳です。 嫌疑の内容は「あいつは他にも仕事をしているのは、このホームページを見れば明らかだ、多分あいつは他の業者に材料を横流ししているに違いない」と言う嫌疑をかけられました。 そして「調査をして不正が明らかになれば告訴する」と言い渡され解雇処分になりました。 しかしそんな物は出て来るはずも無く、なぜなら横流しをするには「倉庫」となる物置き場が必要で、私はマンション暮らしの為そんな物は持っていません。
しかし、その当時には探偵業もマスターしていた為、後日自分で調査して事の真相を知る事が出来た訳ですが、解雇の翌々月に会社は倒産。 倒産前に解雇になったので、とりあえずそれまでの工賃は貰ったのですが、倒産まで居た奴は工賃が貰えませんでした。 何が幸いするのやら・・・ 倒産後、会社の金を着服していた奴らはその金を元に会社を立ち上げ、会社を乗っ取った社長は、元の社長と同じガンで他界。 この会社の衰退途中にも悲劇がありました。 その会社は愛知県内に数ヶ所の施工センターを持っていたのですが、以前私が所属していたセンターの同僚は、センター閉鎖と共にそのセンター長が設立した会社の専属職人になり、材料持ちで仕事を請けていたのですが、そのセンター長(新会社の社長)は請け負い金を持って雲隠れしてしまい、支払いに困ったそいつは兄弟の土地を担保に借金をしてしまい、回収不能に陥り、奥さんは子供を連れて家を出て、兄弟に対しても顔向けが出来なくなり、手首を切って自殺してしまいました。 そこの社長は、お金を持って台湾で豪遊した挙句、肝臓を患って入院している事が判明したのですが、同僚が自殺した数ヵ月後にその社長も他界。 私は、その社長と色々ないきさつがあり、不仲であったので、その同僚にも「あの人には注意しろ」と注意していたのですが、おいしい話には勝てなかったようで、結局悲しい結末になってしまいました。 その他にも、飛び降り(自殺未遂)で現在もリハビリ中の奴も居ます。
今の仕事を専業としてからも、まだまだ人生の荒波は高く、新商品を売り出していた頃、その商品を扱いたいと言う人が現れました。 その人は「俺はこの商品に人生を賭ける」とまで言い、私も全力でバックアップする事にしたのです・・・が。 その人の要望通り、西日本の総代理店の権利を破格の条件で取るなど、出来る限りのバックアップをしたのですが、体を壊してからは態度が一変、数百万の金額の未払いに始まり、挙句の果ては「騙された」とまで言われ、私も支払いに困窮する有様で、腹は立つは金には困るは、自分で売りたいとやって来て、バックアップはこちらも無償で行い、総代理店を維持する為に顧客が必要だろうと、その人に顧客まで何社も付けてやり、そこまでやって「騙された」と言うわけですから、あきれて物が言えません。 それと時を同じくして、お金に困っていた職人時代の同僚に、仕事を斡旋してその材料を卸していたのですが、集金しに行けばもぬけの殻、結局夜逃げされました。 さらに、その損金の穴埋めをしようと躍起になっていたのですが、あせりは隙を生む物で、一元さんからの注文を、〆払いで受けてしまい、それが取り込み詐欺。 結局、自分が人を見る目がなかったと言う事で、高い授業料でしたが良い勉強をさせてもらいました。
それでも、めげずに現在新規事業も立ち上げていますが、この事業には今までの経験の全てが入っています。 転職を繰り返していた事や、騙されたりした経験は決して無駄にはなりません、その後に人生に生かさない事が無駄なのです。 その時その時では無駄に思える人生でも、年を取って行くうちに、無駄と思っていた人生が無駄ではなくなる時が来るのです。
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外人差別と娘のいじめ体験
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私の妻はスペインとフィリピンのハーフのフィリピン人です。 娘は、日本とフィリピンのハーフであり、スペインのクォーターで、体の造りや色は日本人とは違います。 一緒に買い物に行っても、英語で話しかけられたり、何処の国の人ですか?などと聞かれます。 本人は、それが嫌だったのでしょう。 いつも「私は日本人!」と怒っていました。 妻と新居を探していた時も、結婚していても「妻が外人では入居出来ない」など、日本人でありながら外人差別を体験し、外人の置かれている立場を目の当たりにしました。 日本人からすれば、あまり気にしない言葉や態度が外人にとっては傷つける事である事も知りました。 でも、フィリピンでも日本人に対する偏見があります。 それは、現地での結婚式の時に、妻の親族からの質問などで始めて知りました。 まず、その当時のフィリピン人は「日本人は赤ちゃんを空に放り投げ、銃剣で刺し殺す」と思い「日本人は怖い」と思っており、日本人は軍服を着て銃剣を装着したライフルを持っていると思っていたのです。 私が、Tシャツ姿だったので「本当にお前は日本人か?」と何度も聞かれました。
その、赤ちゃんを刺し殺すイメージは、戦時中から描かれている反日の「絵」に、放り投げた赤ちゃんを銃剣で刺し殺す姿が描かれていたのです。 当時はまだ日本とフィリピンの交流は少なく、戦時中のイメージだけで現代日本を全く理解していませんでした。 私の妻も、最初に日本に来た時に「軍服いない、侍いない」と真剣に思っていたそうです。 私は英語はほとんど駄目、ましてやタガログ語など話せませんでしたが、片言の英語と身振り手振りで結構話しました。 どうしても通じない時は、辞書を片手に、それでも通じない時は妻に通訳を頼んで意思の疎通を図りました。 一生懸命お互いを理解しようとすれば、結構通じる物で、現代の日本は戦時中の日本とは違う事を説明しました。 そして、何とか日本人は怖くないと言う事も分かってもらいました。
これも、相手とのコミュニケーションが無い事から、プロパガンダで書かれた「絵」を日本のイメージとして、勝手に恐れていただけですが、話し合う事でコミュニケーションを取り、私と言う日本人を目の前で見る事で、それまで怖がっていた日本人に対する感情が変わるのです。 しかし、私が妻の実家に行った時、近所の住人達が一斉に押しかけ、指差しながら「日本人だ、あれが日本人だ!」と騒ぎ出し、その人を見ると走って逃げていったり、妻の実家に入った時には日本人見たさのフィリピン人が百人以上集まってきて、とんでもない騒ぎになってしまいました。 日本に占領されていた歴史が有る国でありながら、それほど日本人が珍しかったのです。 しかし、その時はまだ日本人を怖がっていて、最初は妻とその親族だけしか話していませんでしたが、話が弾み親族から笑いが出ると、一人、また一人と私に話しかけてきて、気がついた時には私の周りには、沢山の近所の人が取り巻いていました。 翌日にはご近所さんも、日本人に対する恐怖感が消えて、気軽に挨拶してくれるようになりました。
そして話は日本に移ります。 国際結婚は、その言葉の響きとはうらはらに、結構大変なのです。 それは、コミュニケーションで、お互いに言葉も習慣も違います。 日本人同士のように、分かっていて当然と言う事は何一つ無いのです。 料理一つ作るにしても「日本ではこうだ」「フィリピンではこうだ」など話ながら、今日は日本式に、明日はフィリピン式になどコミュニケーションを取らなければ、何一つ相手の事が理解出来ません。 例えば、日本では汗をかいて家に帰ったら、すぐにでも風呂に入ったりしますが、フィリピンでは、すぐに風呂に入ると目が悪くなるという迷信が有るそうで、家に帰っても、すぐに風呂には入れてもらえませんでした。 「秋刀魚」を焼く事一つでも、日本ではグリルで焼いて大根おろしと醤油で食べたり、塩焼きにしますが、フィリピンでは塩焼きと言う感覚が無く油を使います。 煮魚も、日本では鱗を取りますが、フィリピンでは鱗ごと煮ます。 宗教も、神道と仏教の日本に対し、カトリックです。 最初の頃は、神社で十字を切っていました。 カトリックなどは一神教ですので「ここは~の神様」と言う感覚が無く、神社によって神様が違うと言う概念を説明するのにとても苦労しました。 そして、神社と寺院が混在する日本を「変な国」と思っていました。 まあ、向こうは神様一人だけなので単純ですが、日本は一神教の仏教と多神教の神道が混ざってますし、結婚は神道、葬儀は仏教と使い分けていますから、外人の目から見ればおかしな国なんでしょうね。
日本語の勉強も、辞書を片手にテレビドラマで勉強し、それでも分からない単語や用法は一生懸命聞いてくるのですが、日本語を外人に説明すると、日本語を再発見する事もしばしばあり、発音などを教えるのには声ではなく「耳」が重要である事も再発見しました。
出産して子育てに入るのですが、肺結核中の出産と言う事もあり、帝王切開での出産になり、その後は子供を作らない事にしたため、一人っ子として育てる事になりました。 しかし一人っ子は、兄弟間で培われる同年代のコミュニケーションが取れない為、わがままに育ってしまい、その為幼稚園に入学しても、友達と遊んでいてもわがままばかりで、半年もしないうちに友達は無くなりました。 そこで「反面教師」として、娘が友達にしていたわがままを、私が演じて娘が泣き出した時に「お前は友達にこれと同じ事をしていたんだぞ」と諭し、相手の気持ちを教え込み、少しずつ友達も復活したのですが、幼稚園の低学年が終わった時点で引越しする事になり、転校。 転校先では最初からわがままを抑える事が出来て、友達も沢山出来ました。 その中に、同じ日本とフィリピンのハーフがいて、その子と特に仲良しになり、小学校へ進学です。 やはり、同じハーフ同士、近所などでの微妙な差別を感じて同じ立場の者同士で気が合ったのでしょう。 小学校の低学年の時は、結構沢山の友達が遊びに来ていましたが、段々と遊びに来る友達の数が減ってきました。 その原因は、私の教育にあったのです。 私は「クラスでいじめられている子がいたら、助けてやりなさい、友達同士で喧嘩になったら中を取り持ってあげなさい」と教えていて、それを実行していたのです。 その為、多数派のグループが少数派のグループをいじめているのを仲裁していた為、多数派から相手にされなくなっていたのです。 まさか、こんな展開になるとは予想していませんでした。 その少数派のグループの子も、転校などで益々少数派になり、小学校6年の頃には3人だけになって、その3人の中の1人は同じフィリピンのハーフでした。 その頃には、かなりのいじめに遭っていたと思います。 自分で、自慢だった長い髪を切り落としたり、自分の写真の顔の部分を全て削り取ったり「どうして私は半分フィリピンなの?」とか「どうして私の肌は黒いの?」と言って、泣いている事もしばしば有りました。 娘は私が黒いとか外人と言う事は気にしなかったので、家では勉強はさせずに「お笑い番組」を一緒に見て、ボケと突っ込みを練習させ、その中で色が黒いので、電気を消して「何処だ~!闇に溶けるな~!」と言う遊びや「ワ~タシノクニデハ~」など、外人ネタを盛り込み、黒いとか外人とか言われる事に慣れさせて、同時に「ハーフは、子供の頃はいじめられるかも知れないけど、大きくなると憧れの的だぞ~」と教え込んで行きました。 しかし、中学に入ると仲良し3人組は別々のクラスになり、いよいよ孤立無援で、結局私の幼年期と同じ様に、黒とかデコとか外人と言って、からかってくる相手に切れて、益々いじめがエスカレートしていきました。 学校帰りに石を投げつけられたりすることしばしばあり、家に帰って来て部屋に閉じこもって泣いている事が多くなり、そんな時に自分から「黒い事」や「外人である事」をギャグにすれば、いじめは無くなると教えていたのですが、どうしても出来ませんでした。 そして私の両親の死をきっかけに、実家に戻る事になり中学2年で転校しました。 その時に、娘に言い聞かせたのは、お笑い番組を見ながら練習した、ボケと突っ込みを思い出して「自己紹介の時に自分から黒とかデコとか言ってみろ!それでお前の人生は変わるから、出来なければ同じ事の繰り返しだぞ」と言い聞かせ、実行させました。 すると、今度の学校では自分で「日本とフィリピンのハーフで、スペインも入ってま~す。」と自己紹介をし、「おでこが広いから、デコって呼んで~」と勇気を出して言ったそうです。 すると、前の学校とは全く違い、いじめ所か他のクラスの子まで集まってくるようになり、本人はあまりの違いに困惑して、どうしていいか分からないうちに卒業を迎えて、高校へ進学。 転校でのウケが忘れられなかったのか、高校入学時には自分からギャグをかまし、あれほど黒い事を気にしていた子が、自分から「私は闇夜に消えるのよ~」と言える様になり、今ではクラブの部長を務めるまでになりました。 完全に、いじめを克服したのです。
しかし、小学校から中二までの同じフィリピンのハーフの子は、娘の転校を期に登校拒否に走り、娘には「公立高校へ進学」したと嘘を付き、その後に「面白くないから退学した」と嘘を繕うう嘘を言い、結局プータローになってます。 進学が嘘って分かったのは、その子の偏差値ではとても無理な高校へ進学したなどと言う物だから、すぐにばれてしまいますね。 本人は、偏差値がどういうものかも分かっていなかったようですし、登校拒否を半年以上も続けている子が入れる高校でもありません。 そこの所が「見栄」ですけどね。 友達にも嘘をつく事で、益々友人を失っていく構図ですね。 中学時代にいじめられていた子が、高校に進学して、せっかく出来た友人を自分でなくす子もいます。 娘の友人だったのですが、仲良くしていたのに「チェーンメール」を送りつけてくるのです。 その子は誰からも相手にされなくなり、その後引きこもりの後に退学。 |