第2章 被害妄想と社会性

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被害妄想とは

実際には盗聴器が無いのに盗聴されていると思えてしまうのは被害妄想です。

被害妄想と言うと聞こえが悪いかもしれませんが、被害妄想とは「不信感による疑心暗鬼」なのです。

つまり、盗聴を疑っていると言う事は、誰かに対して不信感を抱き疑心暗鬼が生じていると言う事です。

まず、この被害妄想の意味を理解する事です。

例えば、盗聴を疑っている人のご家族の方は「そんな物は被害妄想だ」と、被害妄想と言う言葉だけで納得させようとします。

しかし、被害妄想は不信感から来る疑心暗鬼ですので、不信感を取り除かなければ疑心暗鬼は無くなりません。

その不信感も社会性に直結していて、不信感を抱いていると言う事は社会性の低下を意味します。

そもそも社会性は他者を信じる事で成り立っていますので、他者を信じられなくなれば必然的に社会性も低下するのです。

 

社会性とは

社会性は「協力と分け合い」で成り立っています。

その協力と分け合いに、他社への信頼は欠かせないのです。

例えば、協力しても何も与えられなければ誰も協力しません。

協力したら与えてくれると信じるからこそ協力するのです。

働いても給料が出なければ誰も働きませんよね。

誰も働かなければ社会は崩壊してしまいます。

お金ですら信用で成り立っています。

国家がお金の価値を補償しているから、単なる紙切れが価値を持っているのです。

その国家に信用が無くなれば、お金は紙くず同然になってしまいます。

つまり、社会は信じる事で成り立っており、信じる事が社会性の基礎になっているのです。

 

社会性の習得

社会性は勉強して身に付けられるものではありません。

社会性は親子の愛着を他人に広げた物でありそれが信頼です。

そして、親子の愛着が育っていなければ他者への信頼も生まれませんし、愛着が不完全であれば他者への信頼も不完全なまま広げてしまいます。

親子の愛着が育たない代表的な物が虐待とネグレスト、不完全な物の代表的な物が共依存です。

また、家庭は社会の最小単位で、その家庭の中で社会性に必要な感覚や概念を習得して育ちます。

例えば「お手伝い」は共同作業の第一歩で、親のお手伝いをする事で共同作業の楽しさを学びます。

しかし、お手伝いをさせて来ないと共同作業の楽しさを学べません。

お手伝いをして上手に出来たら褒められる。

その時に嬉しいと思う感覚が向上心になります。

そうした共同作業の楽しみや喜びを学んで来なければ、社会に出て働いた時に労働はストレスとなってしまいます。

また「交代」と言う概念も社会性には必要で、交代には「自己主張」と「自己抑制」が必要です。

それを学ぶ場が、昔からの遊びです。

例えば「鬼ごっこ」ですが、鬼は交代で遊びます。

遊んでいる子供の中で、「鬼は嫌だ」と言ってやらない子どもがいたら鬼ごっこは出来ません。

皆で楽しく遊ぶ為には、嫌だと思ってもやる自己抑制と、やらない子どもに「ズルイ」と言う自己主張が必要なのです。

それを、何度も繰り返して身に付けて行くのです。

これも、社会に出てからとても必要な事で、それが当たり前のように出来なければ、社会に出ると多大なストレスを受ける事になってしまいます。

鬼ごっことか、かくれんぼなどの昔ながらの遊びには、こうした社会性を身に付ける要素が多分に含まれていますが、TVゲームにはそう言った要素が含まれていません。

ですので、昔ながらの遊びをせずにゲームTVゲームばかりしていたり、受験勉強で昔ながらの遊びをしてこなかったりすれば、当然社会性も低くなってしまいます。

間違えやすいのは、そうした感覚を身に付けてこなかった子供でも「振り」は出来るのです。

自然に出来る子と、振りの子供は見ただけでは分かりませんが、社会に出てから感じるストレスが全く違うのです。

その外にも、社会性に必要な物は沢山あります。

意外と知られていないのが、表情の読み取り能力の必要性です。

社会性に必要な物にコミュニケーション能力がありますが、コミュニケーションと言えば恐らく殆どの人が「言葉」と答えるでしょう。

しかし、言葉と同じ位表情の読み取り能力が人間の脳にとっては必要なのです。

霊長類の顔に毛は生えていませんよね。

それは何故でしょう?

それは霊長類は表情で情報を伝達している為、その表情を読み取り易くする為に、顔に毛が生えていないのです。

人間も霊長類であり同じなのです。

ですので、赤ちゃんはまず顔を認識するようになりますし、大人でも顔と同じ配置の物を見ると顔と認識してしまうのです。

表情の読み取りは相手の心の読み取りであり、表情のない相手には不気味さを覚えるのです。

それは、相手の表情を読み取れなければ、相手に不気味さを覚えると言う事でもあるのです。

その表情の読み取り能力は、幼少期よりの顔を向き合わせたコミュニケーションの積み重ねによる表情データの積み重ねで得られます。

その為、表情データの積み重ねが少なければ表情の読み取り能力が低くなってしまうのです。

つまり、子供の頃からコミュニケーションにメールやSNSを使っていれば、表情データの蓄積がされずに表情の読み取り能力が低下してしまうのです。

読み取り能力が備わっている子と、備わっていない子も見た目は変わりませんが、違いは知らない人と顔を合わせたコミュニケーションをした時に脳が混乱を避けるために、目を合わそうとしなかったり、相手の顔を見て話す事が苦手になります。

顔を見て話せなければ、社会での評価は低くなってしまいます。

 

社会性と被害妄想

さて、社会性が低い事と被害妄想はどの様に関係しているのでしょう。

他者を知るにはコミュニケーションを図るしかありません。

その他者とのコミュニケーションで、表情の読み取りが出来なければ相手の真意が分かりません。

他者とのコミュニケーションが苦手で、他者とのコミュニケーションが少なければ、他者が何を考えているのかを想像で考えるしか有りません。

その想像こそが妄想なのです。

また、

社会性は「協力と分け合い」で成り立っています。

その為、人間には「返報性」と言う性質が備わっており、何かを与えられたら何かを返そうとするのです。

与えられるだけで何も返せなければ返報性が満たされません。

すると深層心理の中で自責の念が生じてしまいます。

例えば、期待されているのに結果を出せなければ、申し訳なさや危機感を感じてしまいます。

危機感を感じていると、何気ない一言が嫌味に感じたりします。

それが被害妄想の始まりで、自責の念から物事を悪い方に考えてしまうのです。

つまり、他者の言動や行動に悪意を感じ始めるのです。

こうなると、保身の為に身の周りの悪意を探し始めてしまうのです。

この状態になると、見えている世界の感じ方が変わってしまうのです。

例えば「誰かが見ている」と言う事象一つとっても、主観一つで正反対の感じ方になってしまいます。

他者への信頼があれば「見守り」が不信になると「監視」になり、気遣いもハラスメントとして感じてしまいます。

つまり、他者への信頼と不信の違いで、日常が自分に対する嫌がらせなどの加害行為に感じてしまうのです。

 

認知症の人に見られる「取られ妄想」も、この返報性が起因しています。

取られ妄想で犯人扱いされる人は、決まって熱心な介護者なのです。

その理由は、介護されるだけで何も返せず返報性が満たされないのです。

与えられたら与え返すと言う事は、返さなければ与えられないと言うことでもあり、社会から見捨てられる不安が生じるのです。

つまり、一方的に熱心な介護は返報性を奪うことになり、奪った者に恨みの感情を抱いてしまうのです。

 

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